カテゴリー別アーカイブ: 2.学童集団疎開

【学童集団疎開の実施】

 大都市の学童の疎開が問題になったのは、戦局がますます不利となりつつあった昭和十八年(一九四三)である。国土防衛態勢の徹底強化の方針に基づき、政府はすでにその対策を企て、同年十二月十日には、「疎開ニ伴ウ生徒児童ノ取扱ヒ措 … 続きを読む

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※本文書は昭和61年発行の『箱根温泉史』記載事項です。現在の事実とは異なる部分があります。

【学童たちは箱根へ】

 箱根は主として横浜市からの第一次学童疎開を受け入れることになった。横浜市は学童疎開の方針を次のように定めた。  集団疎開四割  縁故疎開六割  疎開の対象学童数六万七六六三人に対し、市は父兄と協議してその内集団希望二万 … 続きを読む

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※本文書は昭和61年発行の『箱根温泉史』記載事項です。現在の事実とは異なる部分があります。

【学童集団疎開の受け入れ】

 旅館組合の執行部は時局の緊迫下に、県下学童の疎開受入に重大な覚悟と決意をもって、昭和十九年(一九四四)七月二十一日臨時総会を招集した。  当日の総会において石村喜作理事長は、学童受け入れと組合員の協力に対し、不退転の決 … 続きを読む

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【激化する都市空襲】

 昭和二十年(一九四五)に入ってからは戦局もますます重大になり、都市を初め港湾に対する空襲が頻繁になった。横浜市には昭和十九年十二月の鶴見、港北の空襲を最初に連日のように米軍機が来襲した。このような情勢下で箱根に疎開した … 続きを読む

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【父母のもとへ】

 昭和二十年(一九四五)八月十五日、日本は敗戦を迎えた。空襲におびえながら遠く離れた我が子を気づかう横浜の父や母にも、安堵の時が流れた。やがて、八月三十日、連合国総司令官マッカーサー元師が幕僚を引きつれ、厚木飛行場に到着 … 続きを読む

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