【早雲の箱根山支配】

 明応四年(一四九五)八月、一説によると鹿狩に託して箱根山に兵を入れた伊勢宗瑞(北条早雲)は、一挙に小田原城を襲い、城主大森藤頼を追い、相模進出に成功した。
 小田原制圧後、早雲はしばらくは伊豆・西相模の領国支配の安定化に務めるが、その中で、伊豆・西相模の間に聳え、領国支配の要ともいえる箱根山の支配に意を注いだ。子息菊寿丸を箱根権現に送り込み、山中の底倉村には、永正八年(一五一一)「万雑公事」を永久に免許する判物を与え(相州文書)、畑宿木地師にも「分国中合器(挽物)商売自由」、「諸役免許」の判物を与えたと思われる(同書)。
 早雲は、その後相模における最大の敵三浦義同(道寸)と対決、永正十三年(一五一六)義同、義意が拠る新井城を攻め、三浦父子を敗死させ、永正十五年(一五一八)九月、家督を嫡男氏綱に譲り、翌十六年四月には、菊寿丸に伊豆・相模の所領四四六五貫を与えた。そして永正十六年(一五一九)八月十五日、伊豆韮山で八八歳の波瀾に富んだ生涯を閉じた。

 大永元年(一五二一)氏綱は、父早雲の遺言を守り、箱根湯本に金湯山早雲寺を建立し、父の菩提を弔った。しかし古記録が伝えるこの大永元年建立説には検討を要する点があり、筆者は、永正年代に早雲寺の存在を推定している(後北条氏と宗教ー大徳寺関東竜泉派の成立と展開ー戦国大名論集八)。氏綱は、早雲生前の結縁から京都大徳寺より以天宗清を開山に請じた。更に、天文四年(一五三五)十一月十一日、相州中郡土屋郷惣領分(平塚市)など二一四貫九一九文を寺領として寄進した(早雲寺文書)。天文十一年(一五四二)早雲寺は、後奈良天皇の勅願寺となり、後北条氏の氏寺として関東でも屈指の大刹へ発展していった。その後、早雲寺の周辺には、氏綱の養珠院、氏康の大聖寺、氏政室の黄梅院などの諸塔頭が建立され、湯本は宗教都市的景観を呈していった。
 氏綱は早雲の意思を継ぎ、箱根権現の再造営にも着手した。関東の総鎮護神として頼朝以来関東武士の崇敬を集めていた箱根権現は、南北朝から室町に続く戦乱の中でその堂宇も荒廃したままであった。相模を制圧した早雲は、北条時頼以来手のつけられなかった箱根権現の再造営を試みようとしたが、その意志を達せずに没し、氏綱によって継承され、大永三年(一五二三)再造営工事が完成したのである(箱根神社棟札)。

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※本文書は昭和61年発行の『箱根温泉史』記載事項です。現在の事実とは異なる部分があります。

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