【後北条氏と箱根温泉】

 このように後北条氏と深く係わりのある箱根山には、その山中から湧出する温泉にも後北条氏の足跡が多く残されている。
 早雲寺の門前地である湯本は、後北条氏の足洗湯と伝え、氏綱以下武将たちが早雲寺へ参詣の時折り、温泉に浴したという伝承がある(風土記稿)。早雲寺の開山「以天宗清語録」にも「西に温湯湧出し、自ら衆浴室と為す。故に金湯山と号す。」とあり、この偈によっても湯本温泉が北条氏関係者によって利用されていたことが推測される。
 山中の底倉湯にも次のような禁制が残されている。

    禁制
   一、湯治の面々、薪、炭等、基外地下人へ役申付けるの事
   一、材木申付け、仗・もたひを地下人へ申付けるの事
     以上

   右の両条、如何ようの者より申懸けこれある共、地下人出合い間敷く候。
  但虎の御印判、又は幻庵印判これある者に於ては、無沙汰なくこれを勤める
  べきものなり、後日の証状件の如し。
      天文十四年三月八日
                  長綱(花押)
          底倉百姓中
                           (相州文書)

 この証状の発給者長綱については、北条幻庵とする説と、別人であるとする説があり、にわかに定めがたいが、文面から見て北条氏関係者が発給した文書であることは確かであろう。この文書から底倉へ湯治にやって来る武士が、薪・炭そのほか湯治に必要な品物を勝手に申し付けるため、村人が困惑している様子がうかがえる。後北条氏はこのような横暴を禁じ、虎の印判、あるいは幻庵印判がなければ、どのような者の命令に対しても従う必要がないと保証したのである。後北条氏は箱根湯治場の直接支配に乗り出していったのである。
 宮城野の木賀湯に対しても後北条氏の興味深い文書が残されている。

   宮城野留守中は留湯に候といえども、石井京都ニ御用ニ付て、来る十日上り
   なされ候、煩養性のため、彼者上下五人、明日四日より八日まで、五日の
   湯治相違あるべからず、仍って御印判を以って仰せ出され候なり、仍って
   件の如し。


                             (奥脇文書)

 文書の大意は、宮城野の湯は、留守中(出陣による)留湯にしてあるが、石井が京都に御用のため上ることになり、温泉で煩いを養生したいといっているので、明日四日から八日まで五日間の湯治を許可することを御印判をもって仰せ出された、ということであろう。
 宮城野の湯とは同村内より湧出する木賀温泉を指すものと思われる。文面から察すると、この湯治場は、北条氏が出陣中は留湯(入湯禁止)となり、特別の許可なしには入湯できなかったらしい。印判状を以って入湯許可が出されるところを見ると、木賀湯は北条氏の直轄湯であったと思われる。

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※本文書は昭和61年発行の『箱根温泉史』記載事項です。現在の事実とは異なる部分があります。

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