【将軍家の献上湯】

箱根七湯の温泉の効験が人々の間に流布していく契機のひとつは、将軍家への献上湯であったと思われる。
 温泉を樽に詰め遠路運搬し、入浴するといういわゆる汲湯の風習は、すでに戦国時代には行われていた。古河公方足利義氏は、天正七年(一五七九)十月二十三日、梶原美作守に次のような書状を送っている(称念寺文書)。

先日は、塩原之湯御所望の由、仰せ出され候処、即に召寄せ、早々進上御温泉あるべくの条、一入感悦の至りに候(以下略)

 この文面によると、足利義氏は梶原美作守へ所望して塩原湯を進上されたことがわかる。

 江戸時代になると、この汲湯はかなり普及していくが、その始まりは、慶長九年(一六〇四)、徳川家康が部下の立花宗茂の願いを聞き入れ、熱海から汲湯をとりよせ宗茂の病気治療にあてさせたころからであるという(熱海市史)。この汲湯はやがて将軍家への御汲湯(献上湯)へと発展していく。

 箱根温泉における将軍家のへの献上湯は、正保元年(一六四四)から始まった。小田原城主稲葉氏が残した「永代日記」には、

    正保元年(一六四四)十月五日
     幕府老中より箱根木賀温泉へ、湯樽二つ届く

とあり、三代将軍家光への献上湯が箱根木賀温泉から汲み出されたことがわかる。

 右の「永代日記」や「貞享三年御引渡目録」(『神奈川県史』資料編4)、「山田弥一左衛門日記」(東海道箱根宿関所史料集2)などを参照して箱根七湯から汲み出された献上湯の年代、場所を一覧にまとめると次のようになる。

   正保元年(一六四四)十月  木賀  三代家光
   正保二年(一六四五)十一月 湯本  三代家光
   慶安元年(一六四八)十一月 木賀  三代家光
   年不詳           宮之下 四代家綱
   元禄十一年(一六九八)三月 木賀  五代綱吉
   元禄十二年(一六九九)四月 塔之沢 五代綱吉
   宝永三年(一七〇六)十一月 木賀  五代綱吉

 この一覧により箱根七湯の湯本・塔之沢・木賀・宮之下から将軍家への献上湯が正保元年から宝永三年に至るまで汲み出されていたことがわかろう。

 では、このような献上湯はどのようにして汲み出され、江戸城まで運ばれたのであろうか。

 幕府はその年の御汲湯を定めると、御湯樽奉行をその温泉地に派遣する。奉行は御湯御用湯宿に投宿、江戸城への汲み出しが終るまで逗留する。御湯の汲み出しが始まる。湯宿主たちが紋服・袴をつけ長柄の桧柄杓で御湯を汲み、御湯樽へ移す。二つの御湯樽がいっぱいになると、樽に封印が貼られ、一樽に四人、外に手明きの者二人がつき、箱根山を下る。この人足は小田原城下の村々から集められたもので、眼病のない屈強な者が選ばれた。選ばれた男たちは、さかやきをきちんとし、むさくるしくない格好で出頭しなければならなかった。御湯樽は名主宰領の指図で箱根山を下った。樽に貼った封印が切れぬように運ぶのが人夫たちの大切な役目であった(「御用留」小田原市村山家文書)。小田原の問屋場まで運ばれた御湯樽を、その後江戸城までどのようにして運んだかの史料はない。恐らく、問屋に御用人足が集められ、箱根山下りと同様慎重に運搬されたのであろう。
 湯樽は毎日二樽ずつ一四日間にわたって汲み出されていった。これは湯治日数の二廻り分に相当する。このようにつぎつぎと江戸城に運び込まれる御湯樽を見送る沿道の人々に、箱根七湯の効験度が大きくアピールされたに違いない。

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※本文書は昭和61年発行の『箱根温泉史』記載事項です。現在の事実とは異なる部分があります。

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