【外国人湯治客】

 幕末開港以後、横浜の外国人居留地に来往する外国人の数はしだいに増加し、維新後になると、その人口は急速にふえ、明治十年代には横浜在留外国人は三〇〇〇人を越え、明治二十年代になると四〇〇〇人から五〇〇〇人に達したという(『神奈川県史』通史編4)。

 すでに第二章において述べたように箱根温泉に湯治に訪れる外国人は、幕末から明治初期にかけて若干見出せるが、箱根温泉に多くの外国人が訪れるようになるのは明治十年代から二十年代に至ってからである。明治十七年(一八八四)九月二十一日、県下巡回視察中箱根を訪れ、宮之下の奈良屋兵冶方に宿泊した神奈川県令沖守国は、その日記のなかで箱根温泉について「殊ニ七八月両月ハ内外人輻輳セリト云フ、湯本ヲ除キ諸村ノ浴客ヲ合算スルニ、五月ヨリ八月ニ至ル四ヶ月間、内国人五百三十三人、内男四百十三人、女百廿人ニシテ、外国人二百三十四人ナリ、以テ此地ノ営業半バ盛期ニアルコトヲ推知スベシ」(沖県令管下巡廻日記)と述べている。この記録でも明治十七年代になると、相当数の外国人が箱根へ温泉湯治にやって来ていることがうかがわれる。それは先に述べた横浜外国人居留地に来往する外国人の増加と深く係わっているものと思われる。

 外国人の宿泊客は、主として宮之下の奈良屋、同藤屋(富士屋)ホテル、芦之湯松坂屋などに滞在した。幸い松坂屋には、明治年間の「外国人投宿客名簿」が残されている。その内明治十五年(一八八二)と明治二十六年(一八九三)のものをまとめると、次表のようになる。
 
 まず明治十五年における外国人宿泊客数の国別の統計を見ると、イギリス、アメリカ、ロシア、清国、イタリア、ドイツ、フランスの順で、宿泊客中イギリス人が五六・五パーセントと半数以上を占めていることが注目される。月別の外国人宿泊客数は、八月、九月が多く、年間宿泊客数の五七・七パーセントを占めている。これは江戸時代から夏が涼しい温泉地として知られていた芦之湯に、外国人たちも避暑を兼ねて来湯していたのであろう。

 明治二十六年になると外国人宿泊者の国別順位も若干変化する。清国、イギリス、フランス、アメリカ、ドイツ、オランダの順位である。これは同年における横浜居留地の在留外国人の国別人口動向とも一致する。この年の在留者統計は約五〇〇〇人、清国人約三三〇〇人、イギリス人約八〇〇人、アメリカ人約二五〇人、ドイツ人約一五〇人、フランス人約一三〇人、その他であった(前掲『神奈川県史』)。居留地の外国人は清国人、イギリス人が圧倒的に多い。芦之湯の宿泊客も清国人、イギリス人によって七四・七パーセントを占められていることもうなづけよう。

 明治十五年と同二十六年の宿泊客の職業を見ても若干変化のあることに気づく。十五年の場合は第一位が海軍士官、ついで商人、船員で、横浜に来港した軍艦の乗員が休暇中箱根温泉に来湯したことが推察される。二十六年になると、商人が圧倒的に多くなる。これは、横浜港での外国貿易が活発になり、外国人貿易商が多く在留するようになったことの反映であろう。

 このように、芦之湯における外国人宿泊客の動向はその年代を反映し興味深い。増加する外国人宿泊客の誘致をめぐって、宮之下では老舗の奈良屋と新興の富士屋ホテルが激しい競争を繰り返していた。ローマ字入りの箱根温泉案内図を発行したり、建物の新築、改造を繰り返し、設備の充実を外国人宿泊客に訴えた。

 しかし、この競争も明治二十六年になると、富士屋ホテルの山口仙之助を奈良屋の安藤兵冶との間に「宿泊営業に関する契約書並びに附帯契約」という業務協定が結ばれ、富士屋ホテルは外国人専門ホテル、奈良屋は日本人専門旅館として営業を行うことになり、富士屋ホテルは、その代償として毎年一定の報償金を奈良屋に払うことになった。

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※本文書は昭和61年発行の『箱根温泉史』記載事項です。現在の事実とは異なる部分があります。

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