【宮ノ下―芦之湯―箱根間の道路開削】

 宮之下まで整備された箱根七湯に道路開削を更に小涌谷―芦之湯―元箱根―箱根へと伸長させ、箱根七湯道の総仕上げをしようとした人がいる。芦之湯の松坂萬右衛門である。
 萬右衛門は、芦之湯や箱根の振興のため兼ねてから東海道線松田駅から箱根山中を通って芦之湯から沼津駅に至る箱根鉄道の敷設を上申したこともあるが、萬右衛門が生涯をかけて取り組んだ大事業は、宮之下―箱根間の車道開削であった。
 萬右衛門は、この計画を明治三十一年(一八九八)に立案、箱根町・元箱根村・芦之湯村の組合長松岡広吉、芦之湯紀之国屋の川辺儀三郎、市川浜冶、小涌谷の榎本恭三らにはかり、神奈川県に出願した。同三十二年県へ工事の補助金を要請する一方、村内の長老である市川浜冶を事務局長に選び準備をすすめた。同三十三年神奈川県知事周布公平が現地を巡視し、開削工事に許可がおりた。

 工事は、明治三十五年(一九〇二)三月より着工された。第一期工事は宮之下―小涌谷間約二キロ、第二期は小涌谷―芦之湯間約六キロであった。工事は箱根山の断崖を削り、埋めたてながら進むという難工事で、予想外に支出金もふえ、脱退者も出た。萬右衛門は資金調達のため東京や小田原に出むくなどその労苦は大変なものであったが、どうやら第二期を完成させた。
 しかし芦之湯から精進ヶ池を抜け、元箱根へ向かう二子山麓の岩場を削る第三期工事になると、大きな壁にぶつかった。神奈川県からの補助金、宮内省からの下賜金も底をつき萬右衛門らは苦境に落ち入った。この時援助の手をさしのべたのが、小田原の今井徳左衛門、元箱根の大庭小三郎であった。彼らは食糧を工事現場まで運び、提供してくれたり、萬右衛門の県会方面への資金調達運動を援助したりした(松坂康・箱根山車開さくこぼれ話)。

 萬右衛門らの資金調達運動に対しての県の回答は湯本三枚橋から畑宿に至る東海道松並木の払下げであった。これには後にも紹介するように箱根の自然美を害すると、在日外国人から批判の声もあったが、県会が補助金増額に反対するという事態のなかでは止むを得ぬ処置であった。

 多くの困難にぶつかりながら明治三十七年(一九〇四)五月、宮之下―箱根間の道路開削工事はついに完成した。道路幅二間(約四・五メートル)、距離七三四〇間(約一三・二九キロメートル)、総工費八万一九〇円に及ぶ大工事がここに完成したのである(芦之湯・箱根新道碑文)。

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※本文書は昭和61年発行の『箱根温泉史』記載事項です。現在の事実とは異なる部分があります。

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