【電気鉄道への道】

 明治二十年代日本の近代化の潮流は激しくうずまいていた。馬車鉄道も新しい時代に対応していくためには電気鉄道へ転換していく必要に迫られていった。
 
 小田原馬車鉄道が電気鉄道へと転換していく計画は、明治二十三年(一八九〇)、社長の田島正勝や取締役の吉田義方が、東京上野公園で開かれた第三回内国勧業博覧会に出陣された「スプレーク式電車」を見学にいくころから始まった。
 田島らは、その見学から帰ると、「今後の交通機関は電気鉄道に俟たざるべからず」と報告し、積極的に電気化への道を歩む決意をした。明治二十九年(一八九六)七月十八日、多くの紆余曲折を経て、電気鉄道敷設の許可を得た田島らは、同年十月十五日社名を「小田原電気鉄道株式会社」と改称、資本金七〇万円をもって新しい事業に着手した。

 電気鉄道を実現するためには、その動力となる電気供給のための発電所の建設が必要であった。各方面にわたる調査・研究の結果、箱根湯本茶屋須雲川橋付近に須雲川の水を利用した水力発電所を建設することを決定、明治三十一年五月より着手、同三十三年二月に完成した。この発電所は、ベルトン水車二五〇馬力、四台、ウォルカー発電機一五〇キロワット、三台をもつ当時として類例のない強力な発電所をもつものであった。

 発電所の建設に平行して、工学博士藤岡市助の指導のもとに鉄道の電化工事も、明治三十二年二月十五日から開始され、同三十三年二月には工事を完了した。
 明治三十三年三月二十一日、小田原電気鉄道は国府津―小田原―湯本間の運転を開始した。日本で四番目、県下で二番目の電気鉄道が誕生したのである。
 その後も電気鉄道は、多くの改良を加えつつ発展し、大正八年(一九一九)には湯本より強羅へ路線を延長し、スイッチバック方式を取り入れた我が国唯一の登山電車の運転が開始された(箱根登山鉄道のあゆみ)。

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※本文書は昭和61年発行の『箱根温泉史』記載事項です。現在の事実とは異なる部分があります。

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