【自動車事業の始まり】

 箱根山に自動車のエンジン音が響いたのは、明治の末である。このころになると、横浜在住の外国人が自家用自動車を走らせて箱根に遊ぶようになった。明治二十年(一八八七)塔之沢・宮之下間延長五・七キロの車道が開削され、明治三十七年(一九〇四)宮之下・芦之湯・箱根町間を結ぶ延長一三・二キロの新道が完成すると、箱根山の交通は駕籠、乗馬からチェヤー、人力車、馬車に変わり、やがて大正に入ると自動車交通の幕明けを迎える。

 大正元年(一九一二)湯本の松元安太郎はエム・エフ商会を開業、貸切自動車の営業をはじめた。箱根における最初の自動車業であった。開業当時の車両台数は不明であるが、大正六年には四台の自動車を保有している。
 つづいて大正二年三月、小田原電気鉄道株式会社が電気鉄道の付帯事業として、米国製五人乗自動車四台、三人乗一台の五台の自動車で貸切自動車を開業した。営業区域は、国府津駅を起点として強羅に至る間及び宮之下より箱根町に達する区域であった。
 営業用自動車の出現は、人力車夫や乗合馬車を生業とする者には一大脅威であった。彼らはガラスの破片を道路にまいてタイヤをパンクさせるなど、あらゆる手段に講じて自動車の運行妨害を図ったという。

 大正二年七月四日付「横浜貿易新報」は「小田原電鉄自動車、俥より却って廉なり」とハイヤー代と人力車代を比較して次のように報じている。

 小田原電気鉄道株式会社にては国府津・小田原・湯本を基点として、中郡大磯町、足柄下郡箱根町間に貸切自動車の運転を開始したるが、何れも五人乗にて各所への賃金左記の如し

  箱根湯本より  (片道)   (往復)
  大磯     十二円     十七円
  国府津     七円      十円
  小田原     四円      六円
  塔之沢     一円      二円
  宮之下     四円      六円
  小涌谷     七円      十円
  強羅      七円      十円
  芦之湯     九円     十三円
  箱根町    十三円     十九円

以上に就いて見るに近距離は俥と大差無きも、遠距離に於いては俥より頗る廉なり。例へば湯本・宮之下間は上りには二人曳(イ曳)を要し其賃金一円五十銭以上(規則は一円なるも実際は行はれ難し)なるに自動車は片道四円、之を五人に割当れば一人八十銭、往復にても六円即ち一人一円二十銭にて殆んど俥賃の二分の一に過ぎず、されば多人数にて箱根上りの際には自動車の方迅速便利且つ廉価なり、但し時間を要する場合には相当待賃を要する事勿論なり

 しかし、運転手には接客の躾もなく英語を解せぬはもちろんのこと時間の観念に乏しかったので、外人客専門の富士屋ホテルではトラブルが絶えなかった。
 そこで、富士屋ホテル三代目社長山口正造は大正三年八月、資本金五五〇〇円の富士屋自動車株式会社を創立して、自ら貸切自動車事業を始めた。設立に当たって、人力車夫、駕籠かき人夫など従来富士屋ホテルの客のため交通の便を供した者には株主となることを勧めた。これは自動車に反対する動きを押える意味もあったが、なによりそれらの人々の生活救済を考えての措置であった。

 オランダ行使が帰国の際売りに出したフィアット七人乗幌型車一台を五〇〇〇円で購入、他にランブラー二台を借り入れ三台の自動車で営業を始めた富士屋自動車は、専ら富士屋ホテルの客に供し閑散時に限り一般客のもとめに応じた。また、山口正造は運転手の養成に力を入れ、英語をマスターさせるほか礼儀作法を学ばせ、青襟、青袖のカーキ色の制服を着用させた。

  開業当時の富士屋自動車の貸切料金は

   宮之下・横浜間          四十円
   宮之下・国府津間  五十分     十円
   宮之下・湯本間   二十分      四円
    (夜十時以降及び大雨の時は二割増)
                (富士屋ホテル八十年史)

 富士屋自動車は大正四年(一九一五)国府津駅構内に自動車置場を設置構内営業権を得たので、この時から小田原電気鉄道貸切自動車との競合が始まった。

 大正六年十二月十二日の横浜貿易新報は「箱根と自動車」の見出しで次のように報じている。

箱根・国府津間の交通機関として旅客遊覧者の乗用自動車は、宮之下富士屋自動車会社の十六台、小田原電鉄の五台、湯本松本の四台等二十五台なるも年々多数の乗客を見るに至り本年の如きは各地共に運転回数を増加せるも不足を告げたり、此等の関係上富士屋自動車の如きは明年度より更に六両を増加し、宮之下、湯本、小田原、国府津、湯ヶ原、熱海等六ヶ所に車庫を置き遊覧者の便宜を計る由
                                      (山口正造談)

 わずか三台の自動車で始めた富士屋自動車の貸切自動車事業は順調に発展し、大正八年(一九一九)には三六台の車両をもつまでに成長した。
 この間、小田原電気鉄道は、大正四年に着手した湯本・強羅間の登山電車の軌道敷設工事に全力を傾けていた。

 大正八年六月一日は箱根山交通近代化の記念すべき日である。この日、湯本・強羅間に登山電車が開通、富士屋自動車は国府津・箱根町間に乗合自動車の運行を開始した。

 山口正造は登山電車との対抗策として大正四年、すでに箱根全山のバス路線と小田原・熱海間の路線許可を得ていたが、バス運行が引き起こす社会問題を考慮して、電車開通のこの日まで自重して時期を待ったのである。

 宮之下・国津府間は一日六往復、所要時間片道一時間二〇分、宮之下・箱根間は一日五往復、所要時間片道一時間で、運賃は次のとおりであった。

   宮之下―湯本     一円二十銭
   宮之下―小田原   一円八十銭
   宮之下―国府津   二円五十銭
   宮之下―箱根町   二円六十銭
   小田原―箱根町   三円八十銭
   国府津―箱根町   四円四十銭

 登山電車の運賃は、宮之下・湯本間が特等五六銭、並等三七銭、強羅・湯本間が特等八四銭、並等五六銭であったから、バス料金はこれに比べて、かなり高いものであった。
また、土曜日曜に限り宮之下から横浜グランドホテル間に一往復ずつバスを運行した。所要時間三時間、片道一人一三円であった。

 開業当初はビュイックの乗用車を使用したが、料金を下げるためには大型の車両を必要としたので、米国製ホワイト車三台を購入し一二人乗車体を製作して赤塗バスを走らせた。後に車体の塗替費用を節約するため、ニューム張りの車体にした。「富士屋の弁当箱」と呼ばれて人々に親しまれたバスである。

 車体を大型化した富士屋自動車は、大正十一年十二月、大幅な運賃値下げを行った。

   小田原―宮之下  一円
   国府津―宮之下  一円五十銭
   宮之下―箱根町  一円八十銭

 大正九年(一九二〇)四月、芦ノ湖に箱根郵船株式会社が設立、同年十月二十一日には東海道線が国府津から小田原まで延長された。
 大正十年七月、小田原電気鉄道も小涌谷、箱根町間にバスの運行を開始、同年十二月一日、強羅・早雲山間のケーブルカーが開通した。小田原電鉄は翌十一年五月には、登山電車、ケーブルカー、バス、箱根郵船の相互連絡の切符「箱根回遊乗車券」の発売を開始、箱根清遊一日コースを京浜地方に宣伝している。小田原から箱根を回遊して小田原に戻る費用は一人四円十六銭であった。
 宮之下・仙石原間に富士屋自動車のバスが運行を開始したのは大正十一年(一九二二)七月である。(宮之下よりの運賃、宮城野三〇銭、仙石原一円二〇銭)その後大正十四年九月に御殿場まで延長、同年十一月には仙石原・湖尻間にバスが運行するようになった。
 宮之下・沼津間に富士屋自動車がバスの運行を始めたのは、関東大震災による道路崩壊が復旧した大正十三年六月であった。運賃は宮之下・沼津間三円六〇銭、箱根町・沼津間二円であった。開業当初はビュイックの乗用車を使用した富士屋自動車もこのころになると、二五人乗の大型ホワイト車を箱根山に走らせている。
 このように、箱根山交通の近代化は大正年間、小田原電気鉄道と富士屋自動車二社の激しい競合の間に発展していったのである。

 小田原電気鉄道は昭和三年(一九二八)一月、日本電力に吸収合併されたが、同年八月に電鉄部門が分離、箱根登山鉄道株式会社として再発足した。富士屋自動車は昭和七年八月、箱根登山鉄道の自動車部を吸収合併、商号を富士箱根自動車株式会社と変更し、長年にわたって繰りひろげられてきた両社の競合に終止符を打ったのである。

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※本文書は昭和61年発行の『箱根温泉史』記載事項です。現在の事実とは異なる部分があります。

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