【塔之沢福住楼と沢村高俊】

 塔之沢の老舗、福住喜兵冶を買収して、箱根に進出した沢村高俊もその一人である。高俊は肥後細川藩の家老をつとめた武士であった。維新後、東京に居を移した高俊は、明治二十三年(一八九〇)塔之沢福住が売物に出たのを知り、将来有望の地と睨んでこれを譲り受け、側室長谷川まつに経営を任せた。高俊が手に入れた福住は江戸時代からつづいた湯宿で、塔之沢の西のはずれにあった。明治六年(一八七三)明治天皇・皇后が宮之下奈良屋に行幸啓の折には御小休の場所となり、また福沢諭吉が、箱根山道普請の提言を記したのも、福住喜兵冶に滞在中のことであった。
 福住の女将となった長谷川まつは、長谷川時雨著「美人伝」に載るほどの器量よしであったという。容色と才気に江戸女の気魄を備えた、まつはたちまち塔之沢の女俠、名物女将と呼ばれるようになった。また、まつが吹聴した塔之沢の紅葉宣伝は猛烈なもので、遂には「塔之沢の紅葉狂」といわれたという(婦人界三十五年・婦人新聞社版)。「木の葉が赤くなれば宿屋は青くなる」といわれたほど、夏が過ぎると閑散とした当時の箱根で、独り気をはいたまつは、オフ・シーズン対策の先駆者でもあった。
 明治二十六年発行の『箱根温泉誌』は「福住は塔の沢の西の外れにあり、最も新しき建築にして、家屋は宏壮ならざれども清らかにして小さき客室多し」と紹介している。まつが新築したものか、改装したものかは定かでないが、買収した古い宿に、早速手を入れている様子を知ることができる。
 しかし、明治四十三年(一九一〇)八月、早川の大洪水は千里一足の勢で、一瞬にして福住の建物を押し流した。後に残ったものは、網代の浜に打ち上げられて発見された沢村家家宝の正宗の銘刀一振だけであったという。店を失ったまつは、その年の大晦日千歳橋袂の玉の湯(現在の場所)に移り、湯宿を再会した。玉の湯は、明治四十年ごろ、子安ひさから一の湯と共同で買収し別に経営していた湯宿である。まつは一の湯から権利を譲り受けて独立し、名を福住楼と改めた。
 蔦屋の沢田武冶、福住楼の沢村高俊はともに武士であったので、宿屋の経営主に自らの姓名を名乗るのを嫌い、それぞれ妻沢田きく、側室長谷川まつを宿の名義人としている。明治の気風であろうか。

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※本文書は昭和61年発行の『箱根温泉史』記載事項です。現在の事実とは異なる部分があります。

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