【宮之下奈良屋】

 奈良屋の創業は江戸前期、将軍綱吉のころといわれている。江戸中期から後期にかけて多くの大名が宿泊した記録は「大名湯治」の項に述べたが、明治六年(一八七三)には八月五日より同月二十八日迄明治天皇、皇后両陛下御駐輦の光栄に浴した。

     御布告
  聖上、皇后宮来ル八月三日午前第六時二十分御出門相州宮之下温泉場へ行幸於同所御
  駐輦
  同三十日  還幸被仰出候條此旨布告候事
   明治六年七月廿日  太政大臣  三条実美
     ○ 御泊割左之通
    行幸の節       三日  藤沢
      四日  小田原  五日  宮之下御着
    還幸の節      廿八日  小田原
     廿九日  藤沢  三十日  還幸
   右之通被仰出之趣触示條此旨可相心得者也
    明治六年七月廿五日  神奈川県権令   大江卓

 八月五日、小田原旧本陣大清水、清水正恭宅を御出輦された両陛下は、塔之沢福住で御小休の後、天皇陛下は御乗馬で、皇后陛下は御駕籠に召されて、宮之下奈良屋に着御された。
 随行の者は勅任官四名、奏任官一八名、判任官三七名、等外二八名、その他近衛兵、憲兵、巡査など一〇〇名を越す供の者には宮之下、底倉の湯宿の他堂ヶ島の湯宿、民家までもが宿舎に当てられた。
 奈良屋に残る記録によれば、行在所となった本館はもちろん国道筋に至るまで菊花御紋章入の紫縮緬の慢幕を引きめぐらし、家僕の住む室には垣を造って境とし、昼夜近衛兵、憲兵、巡査が警衛に当たったという。両陛下には御避暑の間、芦ノ湖に御清遊、大涌谷の噴気孔を御覧になられた。また地元の者は向山(明星ヶ嶽)に松明を点し天覧に供した。
 皇后陛下は同年の行啓の他、明治五年及び同九年にも、夏を奈良屋で御過しになられたが、再三にわたる御避暑で奈良屋の営業に迷惑のかかることを御心にかけられ、宮之下に御用邸を建てるよう仰せ出された。西南ノ役のため一時沙汰止となったが、明治二十八年(一八九五)宮之下御用邸は落成した。
 明治天皇、皇后の行在所となった本陣奈良屋の建物は、明治七年及び同十六年の大火で焼失し、今は靴脱ぎ石が残るのみである。
 幕末から明治初年代にかけて箱根を訪れた外国人の多くは奈良屋に泊まった。また、勝海舟、木戸孝允、副島種臣などの高官も好んで奈良屋を宿とした。大隈重信は大火後新築した西洋館を常宿にしたという。

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※本文書は昭和61年発行の『箱根温泉史』記載事項です。現在の事実とは異なる部分があります。

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