【塔之沢元湯】

 塔之沢元湯は慶長後年塔ノ峯の阿育王山阿弥陀寺の開山弾誓上人が土地の人秋山道伯と図って開いたと伝えられている。道伯の子孫は代々弥五兵衛を名乗って元湯を経営したが、明治の初め、小田原の人中田暢平に湯宿を譲った。中田は元湯経営の傍ら、小田原の国学者吉岡信之や福住正兄などに学んで和歌をよくし、湯宿元湯を別名真仙台と称した。

  惜しまじな君と民との為ならば
   身は武蔵野の露と消ゆとも

と詠まれ、御年僅か一五歳で、一四代将軍家茂に御降嫁され数奇の半生を送られた仁孝天皇の皇女和宮が脚気を患われ、治療と御静養のため塔之沢元湯においでになったのは明治十年(一八七七)八月七日であった。転居後一時は御病気も快方に向かい、歌会が催されたり、土地の婦女たちも御招きをうけて御目にかかれるほどであったが、間もなく御病は日々に重くなり、九月二日御薨去遊ばされた。御年三二歳の若さであった。御遺骸は五日夜、白衣の人のかかげる松明の明りを先導に旅館元湯を出棺、東京に向かった。
 元湯の館主中田暢平は宮を追慕のあまり、御逝去の室に近い真仙台の泉のほとりに自詠の歌を刻した碑を建てた。宮より「行人過橋」という題を頂戴して詠み、御披見を願った時の歌である。

  月影のかヽるはしともしらすして
   よをいとやすくゆく人やたれ
     明治丁丑のとし晩秋応乞
             勝安房書

 中田が勝安房(海舟)に依頼して書いてもらったものである。この碑は現在、環翠楼の中庭に、当時のままに残されている。
 明冶十七年(一八八四)小田原の鈴木善左衛門が中田暢平から元湯を譲り受け「元湯鈴木」と称していたが、明冶二十三年(一八九〇)伊藤博文が宿泊して、主人善左衛門のために環翠楼の三字の額を揮毫して与えて以来、環翠楼と呼ぶようになった(中野教次郎・和宮様と環翠楼)。

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※本文書は昭和61年発行の『箱根温泉史』記載事項です。現在の事実とは異なる部分があります。

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