【全国に先がけた特設電話】

 明治四年(一八七一)三月一日、箱根宿旧本陣石内弥平太宅に郵便取扱所(後の郵便局)が設置された。東京と京都・大阪の間に新式郵便業務が開始した日である。つづいて明治七年十二月十六日、宮之下郵便局が奈良屋安藤兵治宅に、同十一年八月二十日、湯本郵便局が対木弥平宅に置かれた。明治二十七年発行の『箱根温泉案内』には

   湯本郵便電信局、鉄道馬車待合所の隣地にして鉄路の側にあり、小包郵便、為替、貯金を取扱ふ、
  塔之沢温泉は此局の集配区域内なり
   宮之下郵便電信局、浴舎奈良屋の構内にある石造の建築なり、小包郵便、為替、貯金を取扱ふ、底
  倉、堂ヶ島、小涌谷、木賀及び仙石原の諸温泉は皆此局の集配区域内なり
   箱根郵便電信局 客舎石内の構内にあり、為替、貯金、小包郵便を取扱ふ、芦之湯、湯の花沢及び
  姥子の諸温泉は此局の集配区域内なり

と書かれている。明治三十六年(一九〇三)六月一日芦之湯松坂屋構内に設置された電信取扱所は、同三十八年四月一日芦之湯郵便局となった。明治時代に箱根に設置された郵便局は以上の四局で、三局は旅館の構内にあった。
 我が国の電信のはじめは明治二年(一八六九)八月九日で、この日、横浜弁天灯明台から同港本町通りの裁判所との間に官用通信が開始されたという。五年後の明治七年六月には、早くも小田原に電信局が開設した。県下二番目の電信局であった。小田原が、箱根に入湯する高官、名士の経由地であり、天皇・皇后両陛下宮之下行幸啓の際のお立寄り地であったからである。箱根山に電信が通じたのは明治十四年七月で、箱根郵便局に電信分局が置かれ避暑客の多い七月から九月までの三か月に限って業務を取扱った。我が国最初の季節局であったが、箱根離宮の落成した二十年七月通常局に昇格して、通年、電信を取扱うようになった。この年宮之下郵便局に電信季節局が開局、二十三年、通常局となった。湯本郵便局で電信取扱を開始したのは明治二十五年八月、芦之湯では三十六年六月であった。
 電話が開通したのは明治三十四年(一九〇一)八月である。宮之下郵便局、湯本郵便局に、電話所が設けられた。通話地は東京・横浜に限られ、「電話呼出規程」により指定した地域内に居住する者を、電話所に呼出して通話する制度であったから、旅館に電話を引くことは未だできなかった。箱根の旅館主たちは、機械や線路、土地建物の寄付まで申し出て、電話の加入を当局に迫った。そこで、政府が考えついたのが、明治三十五年(一九〇二)七月公布された「特設電話制度」である。この制度は、電話の加入設備や維持を加入者に負担させ、しかも後日普通電話に変更の時は、これをすべて国に無償寄付するという、政府にとっては誠に虫のよい制度であった。
 しかし、同年九月十七日、全国に先がけて、宮之下・湯元の電話所において特設電話制度による電話交換業務が開始されると、この日を一日千秋のおもいで待っていた旅館主たちは競って特設電話に加入した。当時湯本局の電話は、
   二番(福住) 三番(環翆楼) 四番(玉の湯) 五番(新玉の湯) 六番(塔之沢福住楼) 
   八番(一の湯)
 宮之下局の電話は、
   二番(富士屋ホテル) 三番(芦之湯紀伊国屋) 四番(奈良屋) 五番(小涌谷三河屋) 
   六番(蔦屋) 七番(芦之湯松坂屋) 八番(小涌谷開化亭) 九番(梅屋)
で、いずれも若い番号を旅館が独占している。
 芦ノ湖畔に電話が開通したのは、三年後の明治三十八年で、交換業務は四十一年三月に始まった。
 箱根局からの一通話の電話料は
 (宮之下)二〇銭  (湯本)二五銭  (小田原)二五銭  (横浜)二五銭  (東京)三〇銭
                                    (関東電信一〇〇年史)
 仙石原や強羅・宮城野も宮之下局の特設電話に加入しなければならなかった。この特設電話制度は昭和七年まで続いたから、明治・大正期の箱根の電話は旅館を主とする加入者の多額の負担によって、拡げられていったのである。

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※本文書は昭和61年発行の『箱根温泉史』記載事項です。現在の事実とは異なる部分があります。

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