【耕牧舎の設立】

 明治二年(一八六九)に仙石原裏関所が廃止されて十年余り、山奥の仙石原に開発の手が入れられる。渋沢栄一、益田孝等による耕牧舎牧場の出現である。
 かねてより毛布の製造に着目し、緬羊の飼育を計画していた渋沢栄一は、自ら現地を調査の結果、適地を仙石原に定め、明治十二年(一八七九)神奈川県に出願して、七三七町三反一畝五歩の払下げを受け、翌十三年二月、従弟の須永伝蔵を現地責任者として開拓に着手した。耕牧舎の資本金は四万円で、出資者は渋沢栄一、益田孝(初代三井物産社長)、小松彰(株式取引所頭取)の三名であった。
 この土地は、村の共有秼場を県が牧畜試験場として買収してあったものである。当時の仙石原村は、戸数四五、農業に従事するかたわら、箱根細工用のぶな、こはで、うつぎ等の立木の伐採搬出を副業としていたが、立木が減少してその副業も下火となっていたから、牧畜作業に必要な人夫の供給は、村民にとっても救いであった。
 牧場に着任した須永伝蔵は、文字どおり野に臥し山に寝て開拓に努力したが、牧場一帯には芽が繁茂してとうてい牧羊場とすることができず、やむを得ず計画を変更して、洋牛三〇頭を米国、和牛三〇頭を岩手、青森より購入、種牡牛は勧農局より貸下げを受け、翌年には早くも宮之下、箱根に支店を置いて、牛乳の販売を開始した。またつづいて始めたバターの製造は、箱根を訪れる外人に好評を博したという。その後、小田原や東京にも支店を設けて販路を拡げたが、仙石原の風土が災いして、耕牧舎の経営は順調とはいえなかった(箱根温泉供給社史)。明治三十七年(一九〇四)一月二十日の横浜貿易新報は耕牧舎の牛馬数を「牛一三二頭、内、外国種八〇、雑種五二、他に馬三〇にして雑種なり」と報じている。創立当時の数に比べさして増えていない。
 明治三十七年八月、伝蔵の死によって適任者を失った耕牧舎は、翌三十八年牧畜の事業を廃止した。その後、耕牧舎の所有する土地の半分は仙石原村に寄付され、残りの土地は三井物産の管理となるが、昭和三年、仙石原地所(株)に移り、更に、箱根温泉供給株式会社(昭和五年)へと、渋沢、益田等耕牧舎創立者の奥箱根開発の遺志は引き継がれた。
 明治十三年(一八八〇)耕牧舎の責任者に就任した須永伝蔵は、仙石原を生涯の地と定め、開拓に努力する一方、仙石原村の村会議員さらには村長をも勤めて村の発展に大きな足跡を残した。伝蔵の波乱に満ちた生涯については、稲村得寿著『芦の湖分水史考』に詳しく述べられている。
 当時、仙石原をはじめ耕牧舎所有の耕作地は、芦ノ湖より流出する早川に、その用水を求めていた。明治二十九年(一八九六)四月、早川一帯の水飢餓に端を発し、仙石原や大窪村の農民が芦ノ湖逆川口の甲羅伏を破壊、深良村水利組合は、仙石原村長勝俣沢次郎、大窪村長市川文次郎、耕牧舎須永伝蔵をその責任者として告訴した。第一審、第二審で伝蔵等は無罪となるが、大審院で敗訴、禁固刑を受ける。世にいう「逆川事件」である。
 しかし、この事件は刑事事件であり、判決は、甲羅伏破壊の行為が、刑法に定められた水利妨害罪に該当することを示したものであった。裁判の結果、芦ノ湖の水利権が、深良村水利組合の独占するものになったという誤った伝承が、今日に至ったことは誠に残念なことである。温泉の保護対策が急務とされる今日、箱根には地下水の汲み上げに代わるべき新たな水源の確保がぜひとも必要である。芦ノ湖が、巨大な天然の貯水槽であるにもかかわらず、その水を一滴も使用できないのが現状である。

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※本文書は昭和61年発行の『箱根温泉史』記載事項です。現在の事実とは異なる部分があります。

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