【ベルツと温泉治療】 

 近代国家建設のため、欧米先進国の文明吸収に力を注いだ明治新政府は、数多くの権威者をこれらの国から召聘して、立ち遅れていた我が国文明の向上を図った。明治二十九年(一八九六)六月、東京医学校(現在の東京大学医学部)の教授として招かれたドイツの医学者エルヴイン・ベルツもその一人である。ベルツは二十九年の長きにわたり、我が国医学の発展のため人生の最盛期をささげ、日本医学の父と呼ばれた。
 東京大学医学科教授として医師の養成に当たる一方、寄生虫病、日本恙虫病、脚気、ハイセン氏病、コレラなどの研究や対策とともに、温泉療養法の研究に指導的役割を果たした。また日本人女性、荒井ハナを妻としたベルツは、日本の文化や風俗に深い理解をもち、日本人の体育の改善や家庭医学の普及など予防医学の大切なことを説いた。
 温泉の医学的活用に着目したベルツは、大涌谷の酸性泉に興味を持ちしばしば箱根を訪れ、宮之下富士屋ホテルの山口仙之助とは深い親交があったという。また芦之湯や湯の花沢の硫黄泉にもたびたび足を運んだ。芦之湯松坂屋の外国人宿帳にも、ベルツの名前が残されている。木賀の渓谷美を好んだベルツは、明治十五年ごろここに別荘を設けた。「箱根山中にある自分のさヽやかな山荘ミハラシは、全くよい眺めという名に背かない。実際、全山中で最もよい場所である」と明治二十二年(一八八九)七月二十四日の日記に書いている。
 明治二十年(一八八七)芦ノ湖畔に落成した箱根離宮は、御病弱であった皇太子の保養のため、ベルツの進言によって建てられたといわれている。
 また富士屋ホテルに滞在の折、女子従業員がヒビやアカギレの手で働いているのを見て、グリセリン、エチレンアルコール、水、水酸化ナトリウムに香料を混合処方したグリセリンカリ液を与えたところ、大変よろこばれたという。これが後に、多くの女性に愛用されて有名になった「ベルツ水」である。
 さて、予防医学の大切なことを説いたベルツは、当時の交通不便を克服して、各所の温泉保養地を調査しその開発に努力した。明治十三年(一八八〇)には『日本鉱泉論』を著して、各地の温泉地を衛生的な立場に立って改革し、また箱根をはじめ草津や伊香保などには、西洋医学をとり入れた温泉治療所をつくるよう内務省に建白書を提出した。
 医師ベルツの目から見た日本の温泉場はあまりにも非衛生的で、道路の悪さは、病気を治しに行くことでさらに病気が悪化するのではないかと心配するほどであった。
 その後、明治二十年(一八八七)ベルツは「皇国の模範となるべき一大温泉場設立意見書」を宮内省に提出した。その要旨は、

   完全無欠の模範となるべき一大温泉療養所を設立せんとして、久しくその場所を探したが、漸くこ
  れを発見することができた。その唯一の場所は、箱根山中、大地獄即ち大涌谷の西北涯で、目的に必
  要な条件をすべて具備し、実に得離き好地である。もし自分の計画が実現するならば、単に日本に寄
  与するのみならず、中国、インド、アメリカはもちろん、ヨーロッパにおいても名声を得ることは間
  違いない。また日本は自然の温泉を至れり尽せりの方法で利用していることを証明できるし、ひいて
  は日本の文明開化の進歩を、世界に示すことができる。

というものである。ベルツが意見書に示した大涌谷温泉療養所の構想は実に壮大なもので、道路の開設や森林の整備、浴場には放出泉、鯨噴浴の他、発汗浴、冷水浴など温度の異なる浴槽を設け、付属するホテルには食堂の他に、体操室、読書室、談話室や玉突、囲碁、将棋などの娯楽室を備える。入浴や運動の方法は、すべて正規の医学教課を経た医師の指示に従い、マッサージは医学的に養成した者でなければならないという、最近日本に出現したクアハウスなどとうてい足元にも及ばぬほど大規模かつ本格的なドイツ式クアハウスの計画であった。
 ベルツはその用地として、一〇〇町歩の払下げと、一八〇町歩の長期貸下げを宮内省に申し出ている。
 ベルツの進言を受入れた宮内省は、明治二十二年(一八八九)以降数回にわたり、大涌谷から姥子にかけての土地約一八〇町歩を、元箱根、仙石原両村をはじめ、豊田虎次、石村菊治、石井新吉より約五万円で買上げた。別に、松岡仁右衛門は大涌谷から下湯場にかけての土地、建物いっさいを献納した(箱根温泉供給社史)。
 明冶二十二年夏、木賀の別荘「ミハラシ」に滞在したベルツは、八月五日の日記に

   どうやら今度は、自分の大規模な温泉場計画も、とうとう宮内省により実現されることになるらし
  い。だが、どんな形でかは未だ判らない。知り度いのは、政府が自分に対して、どういう態度に出る
  かだ。できるだけ自分をのけものにしようとするだろうか?しかし、そうなると、温泉の方はどうす
  るだろう?そして、この数年間自分が払ってきたいっさいの努力は?

と記し、なお一抹の不安を訴えている。さらに

   九日、東京への車中で、吉井宮内次官にあう。自分の箱根大温泉場計画を、彼にとくと説明した。
  彼の口から、ちょうど同じ日に三条子爵が木賀へ行き、そこで自分と会うつもりであることを知っ
  た。そこで、すぐさま東京から子爵に、御用があれば行ってもよいと通知した。子爵から、来てほし
  いと返電があった。
    同地におもむく。
   十二日、三条子爵と、折よく居あわせた小田原の郡長中村―全地域の買上げを宮内省のために斡旋
  している人―を案内して問題の地域をまわり、いっさいを両氏に説明した。この土地にほれこんでし
  まった。両氏は、自分が附近一帯をくわしく知っているのに、すっかり驚いていた。事実、自分は、
  住民の誰よりも、この土地の事情に精通しているのだ。
   三条子爵は自分に断言した「宮内省では、あなたの計画どおりやります。この点と、財政上の点
  は大丈夫、ご安心ください」と。
    郡長いわく「二週間内に、買上げは滞りなく完了するはずです。そうなれば、あなたは公然と、
  この計画をもつと詳細に仕上げることができるでしょう」と。

 ベルツがこの計画にかけた、並々ならぬ決意を知ることができる。
 宮内省はベルツの計画を美挙としながらも「山中第一の絶勝を放擲して他人の占有に任ずるには」同意しかねるとして、宮内省用地の貸下げと、官林の払下げには応じなかったので、ベルツが悲願とした一大温泉療養所建設の計画は、ついに、実現しなかった。
 明治三十七年(一九〇四)の夏、大涌谷を訪れたベルツは、自分の努力もすべて無駄であった、と嘆いて、八月二十二日の日記に書き残している。

   姥子温泉は湖上一四〇メートルの高処にあって、富士の眺めの美しいことで有名であり、これを広
  重が名高い絵で後世に伝えている。自分の進言で、この土地は宮内省に買上げられたが、提案してお
  いた道路工事その他の改善は、残念ながら、いまだに着手されていない。ここからさらに半時間登る
  と、硫黄と鉱泉の噴出口であり、同時に山の背で分水界になっている大地獄に達する。まったく驚異
  的なこの噴泉を、むだに放流せずに利用するよう日本人に決心させるため、自分はどれほどの努力と
  時間を費やしたことか―だが、それも、水の泡になってしまった。

 この翌年、妻ハナとともに日本を去り、八年後、六四歳でこの世を去った。
 もし、ベルツの計画が実現していたならば、我が国の温泉医療と箱根温泉の発展の歴史は大きく変わっていたであろう。

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※本文書は昭和61年発行の『箱根温泉史』記載事項です。現在の事実とは異なる部分があります。

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