【震災後の復旧活動】

 大震災は箱根山の各地に深い傷跡を残した。なによりも早く手を付けなければならなかったのは、杜絶した交通網の復旧であった。幸いなことに宮之下-箱根町間の道路は、崩壊箇所も多数あったが大崩壊には至っていなかったため、応急修理をもって小型自動車が通れるだけの復旧工事ができた。
 問題は一番被害の大きい、しかも箱根山の主要道路である湯本―宮之下間の道路の復旧であった。このため湯本村・温泉村・宮城野村・仙石原村・箱根町外二か村組合の一町六か村長及び有志は、同年九月二十日大挙神奈川県庁に出頭し、安河内知事に面会、箱根全山の窮状を訴え、一日も早く道路の復旧工事を実施し、住民の生活と営業ができるように救済方を懇願した。
 しかし県当局の返答は冷たく、温泉さえあればいずれの日か復興することができる、現在営業に窮するものがでても仕方がないとのことであった。一同はやむを得ず、土木課長高田景氏の好意に望みを嘱し、東京に赴き、参謀本部工作隊の出動を要請して帰山した。
 県の援助が当分望めなくなった箱根山の町村では有志が一団となって自力更生を決意し、箱根復興会を結成した。復興会は、各町村より資金を募集し、直ちに湯本―宮之下間の道路の復旧作業に取りかかった。大正十三年(一九二四)六月一日復旧作業は一応完成し、小型自動車が宮之下まで通じることになった。しかし道幅を九尺程度切り開いた仮の復旧工事であったため、雨天が続くと崩壊して交通が杜絶するといった状態で、本格的な復旧に向けて工事は持続されていった。
 一方震災により大きな打撃を受けた小田原電気鉄道も復旧工事に着手、損害が意外と軽微であったことにもより、この工事は数か月で完成、宮之下―湯本間の交通は、道路の本格的回修を待たず、この登山電車によって暫時行われることになった。
 大正十四年七月、国道一号線湯本―宮之下間の復旧工事はようやく完成した。同年七月十日箱根復興会は、内務省堀切土木局長、清野神奈川県知事ら関係者を招待し、富士屋ホテルにおいて盛大な開通式並びに祝宴を挙行した。(富士屋ホテル八十年史)。
                         (岩崎宗純  松坂進  榎本孝一  沢田和)

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※本文書は昭和61年発行の『箱根温泉史』記載事項です。現在の事実とは異なる部分があります。

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