【採掘法の近代化と温泉紛争】

 前述のように箱根山において交通機関の近代化が進められていくのは、大正末期から昭和初期のことであるが、温泉採掘技術もこの年代において急速に近代化されていった。従来箱根山における温泉は、早川渓谷沿いの自噴源泉や、山腹など横穴を掘って採湯する横穴式源泉に求められていた。ところがこの年代になると地下を垂直に採掘する上総堀りという採掘方法がとられ始めた。この採掘法で湯脈を掘り当てれば大量の温泉が湧出することになり、箱根山の各地で上総掘りによる試掘が行われ始めた。大正初期には箱根全山で四〇か所(芦之湯・姥子を除く)に過ぎなかったといわれる箱根山の源泉が、昭和二年(一九二七)の「温泉台帳」によると九三か所に増え、この年代の試掘がいかに多かったかを物語っている。
 源泉の数が少なく、総湯と呼ばれる外湯での入浴が中心であった湯本などの温泉場では、このような源泉の採掘によって一軒ずつが内湯を持つことになり、宿泊客へのサービスは向上した。が、同時にこのような温泉の乱掘は、既成の源泉に影響を与えることになり、源泉保護の声も大きくなっていった。源泉採掘に対する取締りは神奈川県警によって行われた。新規温泉に対する厳格な調査が実施され、既成源泉に対する影響度によっては新規の温泉井戸が埋没されることもあった。
 しかし、温泉を取締る警察行政には大きな問題があった。この時期の国政・県政は、二大保守政党である政友会・民政党が激しく対立し・政権の交代により県警の首脳部も交代し、一貫した温泉取締り行政が行われず、各地でトラブルを起こしていた。
 温泉乱掘のひとつのきっかけになったのは、大正十二年(一九二三)六月、宮城野村木賀五条滝付近での上総掘りによる試掘の成功であった。この試掘法により今までにない深さ五〇〇尺の地中から大量の温泉が湧出した。その結果は全山の試掘ラッシュに拍車をかけ、乱掘による紛争は、大正十五年宮之下地区での共同浴場をめぐって地元民と旅館業者の対立、湯の花沢から元箱根地区への引湯工事をめぐる紛争などが起こった。
 そのほか湯本湯場地区では、大正三年(一九一四)四月同地区に共同浴場を設置しようとした地元民と既設の旅館業者が対立し、紛争は昭和に入るまで続いた。更に大正十三年(一九二四)にも地区住民と老舗旅館とが温泉試掘請願をめぐって対立する事件も起こった。

  上総(かずさ)掘り考
  上総掘りは井戸の掘抜きの方法の一つです。丸太の櫓を組んで、櫓の真ん中に大きな「ひごまき車
(踏車ともいう)」を支え、別にその上方に「弾木(はねぎ)」を固定し、その先端に「ひご」を吊
 り、その「ひご」の先に鉄管と錐をつける。
  踏車は一周五間から八間ほどである。「弾木」は主に竹を利用する。錐は輪一(わいち)とか輪鑿
(わのみ)という。
                               (「ふるさと西上総」より)
    ※上総掘りは、昔の上総国(今の千葉県木更津・富津地方)が発生の地といわれてます。

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※本文書は昭和61年発行の『箱根温泉史』記載事項です。現在の事実とは異なる部分があります。

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