【湯本温泉をめぐる紛争】

 温泉紛争は先にも述べたような県警当局の行政指導の不手際もあり、なかなか止まらなかった。湯本・塔之沢地区で起きた紛争はその典型であろう。大正十五年(一九二六)小田原市八幡山に建設予定の小田原ホテルに地元政治家が強引に介入し、湯本地区から引湯するという計画が明らかになった。特定温泉源からの引湯計画については、旅館組合はもちろん温泉協会・湯本町もあげてこの計画に反対した。旅館組合として確固とした反対態度を表明したのは、昭和六年(一九三一)七月二日に開催した役員会の「箱根温泉地域外引湯反対決議」の採択である。
 昭和九年(一九三四)に同ホテルの小田原への引湯計画は、再び形を変えて持ち出された。当時国策にそって開院された小田原市風祭の国立傷兵院に対し、同ホテルの引湯計画を利用する便宜が与えられたのである。しかもその源泉は、箱根振興会・箱根温泉協会の有力者清水氏が有する湯本地区滝通りの豊富な源泉が提供されることになった。傷兵院への引湯という大義名分をふりかざしての引湯計画に湯本町は、事の重大さを箱根全山に訴える次のような声明文を配布した。

   湯本町地区外引湯ニ対シ箱根全山ノ同情ニ訴フ
  一、地区外引湯ハ湯本町ノ盛衰ニ関スル重大性ニ就テ
   温泉ノ土地開発ヲ促スヲ見ルハ実ニ想像ノ外ニシテ、彼ノ強羅若ハ仙石原ノ如キ人跡少ナキ荒茅ノ
   地モ、温泉ノ利用ニ俟テ一朝ニシテ豪華ナル温泉郷ト代リ、其ノ急激ノ進化ハ実ニ驚嘆ノ的トナレ
   リ。而シテ本町湯本茶屋地内ニ於テモ数年来所々ニ温泉ノ湧出ヲ見ルニ至リシガ、同所ハ須雲川ノ
   清流ニ臨ミ前ニハ湯坂ノ秀峯聳ヘテ天然ノ風光備ハリ、適好ナル温泉地トシテ大ニ将来ヲ期待セシ
   モ温泉ノ湧出量少クシテ漸ク二三ノ別荘用ヲ充スニ止マルノ状態ニアリシガ、昨年夏頃試掘竣功ノ
   清水平治氏ノ温泉ハ湧出量ト温度ニ於テ其ノ類稀ナル優秀ノモノナル趣キナルニ付テハ、斯ル豊富
   ナル温泉ヲ以テ同方面ハ勿論町内適所ニ引用ナシ、現代的施設ニ依リ大衆誘致ニ努ムルニ於テハ本
   町将来ノ発展向上ニ顕著ナルモノアルベキコトヲ何人モ疑ハザル所ナリトス。
   而シテ一面世局ノ進運ニ伴ヒテ、中央地方ヲ問ハズ経済ノ膨張ヲ来スヲ見ルハ勢ノ然ラシムル所ニ
   シテ殊ニ本町ハ災害ノ復旧、小学校ノ建築費等ニ巨額ノ町債ヲ起セシ関係上、一層町費ノ増加ヲ来
   シ、町税課率ハ総テ制限外ヲ課シ、特別税戸数割ノ如キハ実ニ地方ニ見ザルノ重課ヲナシ居ルニ依
   リ今後ニ於ケル町費ノ増加ニ対シテハ全ク増税ノ余地ナキヲ以テ、是非共温泉場ノ発展等ニ俟テ収
   入ノ増加ヲ求ムルノ外他ニ途ナキノ情勢ニアリ。
   此ノ秋ニ際シ本町唯一ノ資源ト頼ム温泉ヲ他ニ引用セラルヽ如キハ、町百年ノ計画ヲ水泡ニ帰セシ
   メ財政ヲ危機ニ導クモノナルヲ以テ断ジテ之ヲ容認スル能ハザルナリ。尚又小田原町方面ヘ引湯ノ
   為メ湯本温泉場ヘ影響ヲ及ボストナスハ杞憂ニ過グルト言フモノアルモ吾等ハ之ヲ当レリトセズ。
   申スマデモナク本町温泉場ハ箱根ノ玄関口トシテ、京浜地方若クハ小田原町方面ヨリ、一日ノ慰安
   ヲ得ンガ為来遊スル人士ヲ顧客トスルモノナルヲ以テ、若シ小田原方面ノ眺望勝レシ場所ニ温泉郷
   ヲ開発スル如キコトアラバ、本町温泉場ハ必ズ之ガ影響ヲ享クルニ至ルベキハ想像ニ難カラザルナ
   リ而シテ本町住民ノ生活状態ハ、一部ノ農工業者ヲ除キテハ、温泉場トシテ外来者ノ費消ニ因ル利
   潤ニ依リテ生計ヲナスモノ多数ヲ占メ、従テ町費負担ニ就テモ之等関係者ニ於テ其ノ大半ヲ担ヒ居
   ルノ状態ニアルヲ以テ、万一温泉場ノ衰頽ヲ来ス如キ場合ハ直ニ町民ノ生計ヲ脅カスノミナラズ、
   町財政ニ甚大ナル影響ヲ及ボスニ至ルベキヲ以テ甚ダ憂慮ニ堪ヘザル所ナリトス。尚亦清水氏ノ引
   湯ガ実現スル如キコトアラバ、今後続々他ニ引湯セラルヽモ之ヲ防止スルノ途ナキニ依リ、清水氏
   引湯ノ現否ハ全ク本町ノ盛衰ニ係ル重大問題ナルヲ以テ、本町ハ該引湯ニ対シ茲ニ絶対反対ヲ表明
   シ全力ヲ挙ゲテ目的達成ニ邁進セントスルモノナリ。

  二、既往ニ於ケル湯本町地区外ニ引湯ノ経緯ニ就テ
  (イ)、去ル大正十五年ノ頃、小田原ホテル代表トシテ高松義郎氏ヨリ湯本湯場温泉ノ一部ヲ小田原
   町ヘ引湯ノ出願ヲナセシニ対シ、吾湯本町民ハ之ヲ以テ本町ノ盛衰ニ係ル重大ナル問題トシ極力之
   ニ反対ヲ叫ビ、尚箱根温泉旅館組合ニ於テモ、箱根ノ興発ニ係リテ重大ナリトシ温泉門外不出ノ申
   合セヲナシテ引湯阻止ニ協力セシガ、幸ニシテ該引湯ハ町村道ヲ経由セザレバ不能ニアリテ、国道
   占用ノ許可ヲ得シ趣キナリシモ、町村道ハ管理者ニ於テ占用を許可セザリシヲ以テ一時之ヲ阻止ス
   ルヲ得タリ。其ノ後該引湯事業ヲ小田原ホテルノ関係者タル小林武次郎氏ガ継承セシ由ナリシガ、
   其ノ源泉タル湯場共有鉱泉地ニ就キ小林氏対共有者問ニ紛議ヲ生ジ、双方間ニ於テ訴訟ヲ起シ累年
   係争ヲ続ケシガ、共有者側ハ元ヨリ微力ノ為メ訴訟費ノ負担ニ苦ムニ至リ、遂ニ妥協ヲナスノ已ム
   ナキノ悲境ニ陥リ、而シテ小林氏ヨリ右妥協条例ノ一トシテ小田原引湯ノ諒解ヲ求メ、尚該引湯ニ
   就テハ嚢ニ其ノ郡部ヲ高貴ノ御方ニ献納方御嘉納ヲ賜リ、其ノ速カナランコトヲ御待望アラセラ
   ルヽ次第ニ付キ是非共便宜ヲ与ヘラレタシト提議セシ趣キニテ、共有者側ニテハ甚ダ恐レ多キコト
   ニ拝シ該引湯ニ反対セザルコトニ依テ妥協成立シ、小林氏ハ引湯経路ヲ民有地ニ求メ得テ其ノ目的
   ヲ達スルニ至リシ由ニテ、後ニ之ヲ漏レ聞キタル町民ハ非常ニ憤怒シ共有者側ニ向テ其ノ不都合ヲ
   詰リテ妥協ノ取消シヲ迫リシニ、共有者側ヨリ其ノ真情ヲ陳訴セシニ付テハ勿論該引湯ニ関シテハ
   小田原ホテル出願ノ当時高貴ノ御関係ヲ仄カセシモ、右ハ当町ノ反対ヲ緩和セン為ノ方便ナルベシ
   トナシ敢テ信ヲ措カザリシモ、其ノ後ノ情勢ニ微シ強チ之ヲ否認スル能ハザルモノトシ、町民ハ涙
   ヲ呑ンデ黙視スルノ已ムナキニ至リシモノニテ、決シテ当町ガ小田原引湯ニ同意セシモノニアラザ
   ルコトヲ言明ス。
  (ロ)、昭和九年ノ春、内務省ニ於テ大窪村風祭地内ニ傷兵院ヲ移転建設セラルヽニ当リ、其ノ施設
   ノ一トシテ湯本地内一部ノ温泉ヲ引用セラルヽノ計画アルヲ聞知セシガ、右事業タル過ギニシ国難
   ニ尊キ犠牲トナラレシ戦傷将兵ノ慰安施設ナル上ニ之ニ反対スベキ様ナキモ、只箱根地区外ノ引湯
   ハ後例トナルノ慮リアルニ依リ、右傷兵院ノ位置ヲ本町地区内ニ変更セラルヽヲ得バ地区外引湯ヲ
   免ルヲ得ルモノトシ早速内務省ニ出頭ノ上具ニ衷情ヲ訴ヘ考慮ヲ仰ギシニ当局ニ於テハ、事情ニ対
   シテハ諒トスルモ既ニ決定セシ事トテ如何トモ致シ方ナキヲ以テ、此ノ儀ハ断念スベシトノ事ニナ
   リシヲ以テ該運動ヲ止メタル上引湯ニ対シテ特ニ便宜ヲ供セシ次第ナリ。

  三、湯本町ノ遺憾トスル廉ニ就テ
   箱根温泉門外不出ノ鉄則ハ既ニ小林武次郎氏並ニ傷兵院ノ引湯ニ際シ、地元ニ於テ破毀シタルモノ
   ナルニ、清水氏ノ引湯ニ対シ湯本町ノ反対其ノ当ヲ得ズトノ説ヲナスモノアルモ、前項ニ述ベタル
   如ク既往引湯ニ対シ本町ハ決シテ同意シタモノニ無之、特殊ノ事情ノ為メ其ノ力及バザルニ因ルモ
   ノニ有之、而シテ小田原ホテル引湯ニ対シテハ本町ノ反対猛烈ノ為メ刑事問題マデ惹起セシハ当時
   反対ニ協力セシ箱根振興会並ニ温泉旅館組合等ノ悉知ノ事実ナルニ不拘、之等団体ノ関係者ヨリ成
   ル箱根温泉協会ニ於テ清水氏ノ引湯ニ対シ本町ノ意向ヲ何等酌ム所ナク、前例アリトシテ同意ヲ与
   ヘシ如キハ、箱根全山ノ利害関係ヲ共ニスル湯本町ニ対シ余リニモ無情義ノ扱ヒニシテ甚ダ諒解ニ
   苦シム所ニ有之、尚又清水平治氏ハ箱根振興会副会長トシテ、率先シテ全山ノ振興ニ努力スベキ地
   位ニアリナガラ、却テ振興ヲ阻害スル如キ行為ヲナスニ対シ、箱根振興会ニ於テ漫然之ヲ容認シ居
   ラシ如キハ本町ノ最モ遺憾トスル所ナリトス。

  四、地区外引湯ニ対シ温泉試掘ニ依リテ補フ能ハザルコト
   本町地区外引湯ニ対シ温泉試掘ニ依リテ之ヲ補フヲ得ベシト言フ向キアルモ、本町内温泉地帯ハ其
   ノ何レヲ問ハズ既存温泉トノ距離ニ制限アル為メ、試掘ノ箇所全クナキニ至リタルヲ以テ付近山上
   ニ向テ試掘ヲナスヲ見ルモ未ダ好果ヲ得シモノナク、現在ニ於テハ試掘ニ依リテ引湯ノ補塡ヲナス
   如キハ絶望ノ状態ニアリ。

  五、箱根振興会ニ望ム
   箱根振興会ニ於テハ、今回湯本町ノ陳情ニ対シ嚢ニ箱根温泉協会ガ清水氏ノ引湯ニ同意ヲ与ヘタル
   関係ヲ顧慮シ居ラルヽ様ニ窺フモ、前項ニ縷々述ベシ如ク箱根温泉協会ガ其ノ扱ヒニ穏当ヲ欠キシ
   廉アルヲ自覚スルナラバ、之ヲ改ムルニ憚ルノ要ナカルベキコトニ思料スルヲ以テ、箱根振興会ハ
   宜シク本町ノ陳情ニ全幅ノ同情ヲ寄セラレ、共ニ引湯反対ノ態度ヲ闡明シテ本町所期ノ目的ヲ達セ
   シメラレ、以テ全山ノ共存共栄ノ実ヲ挙ゲ、其ノ使命ヲ完フセラレンコトヲ切望シテ已マザルナ
   リ。
                  昭和十三年二月 日            湯本町

 このような湯本地区の反対運動の結果、小田原ホテル側は湯本地区からの引湯計画をついに断念せざるを得なくなった。
 この引湯計画は塔之沢温泉にも持ち込まれていた。昭和三年(一九二八)小田原ホテルは、塔之沢地区で新規温泉の試掘を行い、成功すればそこから引湯するという計画を実施しようとした。塔之沢地区では、地元旅館業者及び温泉協会が、既存の源泉の近接地で新規試掘をすることは影響があるとの理由で反対陳情を県当局にしたが、県はそれを却け、試掘を認可した。地元業者は、対抗上止むをえず同地区内四か所に試掘を実施し、自己防衛することとした。
 小田原ホテル系の試掘源泉は成功し、高温の湯量が湧出した。ところが、後に試掘が行われた地元業者の試掘井戸中、ホテル系の源泉の湧出がとまった。このことからこの温泉紛争は、更に粉叫し、加えて政治的利害もからみ、温泉協会と行政機関との対立、地元旅館同士の内部分裂抗争に発展、一時は泥沼化しそうな状況に追い込まれていった。しかし昭和八年(一九三三)横浜裁判所で和解が成立、試掘した源泉を三十九号泉に合併し、涌出させ、塔之沢の各旅館に分湯することで、ようやく円満解決を見た。
 昭和十年ごろになると、湯本温泉地区では温泉の涌出について新たな問題が起こりつつあった。湯本地区では、温泉の湧出が急速に減少していったため、各源泉はタービンポンプによる揚湯を開始した。この揚湯により相互の水位が一段と低下したため、更に大馬力のポンプを競って設置し、ポンプの優劣が湧出を保障するという弱肉強食の戦国乱世的様相を呈し始めた。やがて戦時体制が激化すると動力使用の制限を受け、休電日には湧出量の少ない旅館は休館に追い込まれる状態となった。そこで旅館組合は国策にそい軍療養所に転業し、温泉の動力による揚湯制限の緩和を実現する方策を打ち出していった。

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※本文書は昭和61年発行の『箱根温泉史』記載事項です。現在の事実とは異なる部分があります。

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