【大名行列の誕生】

 富士箱根国立公園指定に向けて猛運動を展開していた箱根振興会は、昭和十年(一九三五)四月十日、二か月にわたる大規模な観光博覧会を湯本(現在の河鹿荘付近)で開催した。この博覧会は同年三月二十六日より開催された横浜復興博覧会の第二会場として、日本各地から横浜に繰り出す観光客を箱根に誘致し、箱根の自然美、湯の香を紹介、宣伝することを目論んで開かれたものである。会場には温泉を引き込んで飲泉口を設けたり、早雲寺・箱根神社をはじめとする箱根の古社寺の宝物や箱根細工などの箱根の物産を展示したかなり本格的な博覧会であった。(第七章参照)

 この博覧会の宣伝ショーとして大名行列の復元が鈴木七郎、鈴木二六、当時箱根登山鉄道の嘱託をやっていた飯野秀司(後の劇作家北条秀司)等によって立案された。小田原藩主大久保氏の大名行列の陣容を復元し、当時まだ街道の面影の残っていた旧街道筋に時代絵巻を繰り広げようという構想であった。この大名行列の演出・衣装などの時代考証には、当時歌舞伎座の支配人をしていた元小田原市長の鈴木十郎や舞台演出家久保田米斉が当たった。
 行列の呼び物となった奴の演技、いわゆる奴振りは、松田町寒田神社に残る祭礼行事の大名行列の奴振りをまね、演技指導を松田町の古老から受けたといわれている。
 行列には湯本の青年会を中心に総勢一五〇名が参加、露払い、総奉行をはじめとする行列、加えて行列に参加した馬子たちによる馬子歌・長持歌の披露などもあり人気を集めた。
 この大名行列は当初は、箱根の観光宣伝を兼ね、各地での祭りや催し物にアトラクションとして参加する形をとり、定期的な観光行事としては実施されていなかったが、衣裳の保管、奴振りの継承は戦時下でも続けられ、戦後は十一月三日の文化の日に行列が行われるようになり、箱根の秋を色どる代表的な観光行事として定着した。

 先に「温泉音頭の誕生」でも述べたように、今日箱根山の各地で繰りひろげられる観光行事の原形は、箱根温泉が第一次の大衆化時代を迎えた大正後年から昭和初年代にかけて、新しい観光客を獲得するために計画実施された各種のイベントのなかから生まれたものが多い。その代表的なものが、この大名行列であり、また次に紹介する宮城野の大文字焼きであろう。

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※本文書は昭和61年発行の『箱根温泉史』記載事項です。現在の事実とは異なる部分があります。

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