【東京・箱根間大学駅伝競走】

 箱根駅伝の名で親しまれ、箱根山住民にとっては、この駅伝が始まらないと新年を迎えた感じがしない程長年の間なじまれ愛されて来た名物行事である。そもそもこの駅伝の起こりは、大正六年(一九一七)東京奐都五十周年を祝し、同年四月二十七日から京都―東京間の五一六キロのコースで行われた東海道駅伝にあった。同駅伝は東海道を二三区間に分け、昼夜走りつづけ、四月二十九日アンカー金栗四三がトップで東京へゴールインした。これにヒントを得て金栗氏は、関東各大学や旧制専門学校の学生に参加を求め、当時の報知新聞社の経済的支援を得て候補コースとして東京―水戸、東京―日光なども検討された。が、道路状況その他の理由で不適当とされ、結局東京―箱根間の往復コースが採択され、実施の計画が練られた。その間、紆余曲折あり、当時の企画に参加を表明した学校は早大、慶大、明大、東京高師の四校だけであった。

 そして第一回大会は大正九年(一九二〇)二月十一日実施される予定であったが、この日行われた東京の市内電車のスト争議をさけ、十四日午後一時市内有楽町の報知新聞社(現在のそごうデパート)前を箱根山に向け勇躍スタートした。参考までに記すと第一回大会の小田原中継地の到着順位、時間は次の通りである。

  一位 明冶大    午後六時二十八分〇五秒
  二位 東京高師   午後六時四一分三五秒
  三位 早稲田大   午後六時四十四分
  四位 慶應大    午後七時二十四分

 日中の短い如月二月、全くの闇夜の箱根山をきびしい寒気と闘いながら当時の選手達は登っていった。事前に主催者から伴走を依頼されていた小田原中学(現在の小田原高)競争部選手に付添われ、トップの明大選手は元気一ぱい走りつづけ、芦之湯を午後八時〇五分通過した。ここで案内役の中学生は、伴走をやめたので、選手は勝手知らない夜道を凸凹の砂利に悩まされながらゴール目指して進んでいったのである。
 また全山の各コース以外の横道に選手がまぎれこまぬようそれぞれの問道に駅伝の終了まで箱根全山の青年団有志がタキ火で待機し、選手が到着するごとに松明を振って指示したり、猟銃を打って仲間に選手通過の合図を送って連絡し合った。こうした地元民の協力を得て明大沢田選手は、午後八時三十分三十六秒箱根町決勝点にゴールインした。つづいて高師、早大の順に到着したが最下位の慶大は消息不明で、関係者及び地元民をはらはらさせたが、午後九時五十三分に無事ゴールインしたのである。折りしも気温も下って雪が降り始め、翌日早朝七時厳しい寒風をついて雪ふぶきの箱根路を各選手はゴールの東京めざして勇躍下っていった。

 こうして箱根駅伝は、予想外の人気を得て、第二回大会は大正十年(一九二一)一月八日日比谷公園の音楽堂前をスタート、前記四校のほか法政大、中央大、農業大が参加し、計七校で争うことになった。この年特筆すべきは、三区を走った早大の新人、河野謙三選手で、彼はスタートから快調にとばし、二着法大に三分の差をつけてバトンタッチをした。また四区平塚小田原の地元の声援を得て兄河野一郎選手もトップで走りとおした。こうした河野兄弟の活躍で早大は往路の首位を占めることが出来たのである。第三回大会でも復路七区で、兄一郎選手は二着でバトンタッチを受けとり、勝手知った道とばかり快走して首位を奪還し、平塚で弟謙三選手につなぎ、彼も韋駄天ぶりを発揮し早大の初優勝を決定づけた。

 以後この大会は昭和初年代毎年一月五日~十日の間に開催され、正月行事として年を追うごとに盛大になってきた。その中に第六回の大会で、日大が当時東京の名物車夫を選手として起用する珍事があった。彼はうわさにたがわぬ快足を発揮し、四大学の選手を次から次へとゴボウ抜きして往路日大首位の原動力となった。
 しかしその資格が規則違反となり、日大は翌年から出場停止の破目になった。昭和十六年太平洋戦争がぼっ発次第に戦火拡大すると、若者たちは戦場へ狩り出されていった。そして戦時体制下文部省の通達によって箱根駅伝は昭和十六年第二十二回以後中断の憂目にあったのである。

 戦後は昭和二十二年一月四、五日第二十三回大会が再開された。当時の社会情勢は食糧難とストの頻発で選手達の体力も今一歩劣る状態であった。第二十五回大会(昭和二十四年)で箱根の山登りの五区を走った中大西田選手は、先走選手群を次から次へと追い抜く暴走を繰り返したため、箱根町ゴール前二〇〇メートルで精も根もつき路上で転倒し動かなくなってしまった。これを見た中央大学関係者が見かねて両手両足を支えてゴールへ運び込む珍事があった。このためルール違反の指摘を受け、かつその行為を見過した審判団はあとあとまで非難された。

 大正から昭和にかけて、全国の駅伝競走の先駆けとなった箱根駅伝の長い大会の中では、四年ごとに開催されるオリンピックへ出場の登竜門となることを各選手が意識し、いつの時代でもこの大会を盛り上げた功績は大きい。
                     (岩崎宗純 児島豊 井島誠夫 草柳輝弥)

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※本文書は昭和61年発行の『箱根温泉史』記載事項です。現在の事実とは異なる部分があります。

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