【日中戦争前後】

 満州事変以降軍部の政策が台頭し国内の産業も徐々ではあったが、軍需景気の兆しが見え始め、京浜地区の軍需工場関係者の来遊客が多くなってきた。

 昭和十二年箱根温泉旅館組合総会に提出された前年度の事業報告を見ると、日中戦争前のまだゆとりを感じさせる観光地箱根の姿が浮かびあがってくる。新聞雑誌広告やポスター、パンフレットで箱根の宣伝に余念がないし、全国各地に開催される展覧会に参加しては箱根の宣伝に努めている。曰く「箱根伊豆温泉名勝展覧会」、「輝く日本大博覧会」。ここにはまだ戦争のかげりは見えない。その年の四月十八日から一〇日間は観光祭であった。全山の旅館は、「提灯其他ノ装飾ヲナシ、従業員ニ観光祭マークヲ佩用サセ」(組合議事録)た。箱根山ははなやいでいた。

 しかし、昭和十二年七月に勃発した蘆溝橋爆破事件はやがて日中戦争へと拡大し、間もなく日本全体が戦時色濃厚となり、やがて中国大陸へ戦火が拡大されるにつれ、温泉観光を贅沢視する風潮が生まれてきた。
 箱根温泉にもこの頃から影響が見られるようになった。

 日中戦争は、政府の不拡大方針声明にもかかわらず、ますます中国大陸での戦域が拡大していった。しかし、昭和十三年後半から十四年の春ごろまでは、日中戦争発生以来下火になっていた団体旅行が復活し、特に京浜、大阪方面から行楽客が箱根へ来るようになって週末の温泉街(湯本・宮之下)はかなりの盛況であった。

 そのころ文部省の提唱した“青少年徒歩旅行”は時の文部大臣荒木貞夫(陸軍大将)の奨励もあって、体力練成を目的とした青少年が、東京・川崎・横浜方面から多数箱根を訪れた。また町内や職場においても、戦勝祈願や、傷兵慰問という時局向きの旅行名目で観光地への旅行が行われた。

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※本文書は昭和61年発行の『箱根温泉史』記載事項です。現在の事実とは異なる部分があります。

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