【深まる戦時色】

 東京・横浜の市民たちは、紀元二千六百年の国家的祝典をよそに、これらの行事への参加よりも各地方に点在する聖地巡歴、戦勝を祈願するための神社仏閣参拝を盛んに行った。このような観光旅行に対し軍はふたたび、「不要不急の旅行は遠慮して国策輸送に協力しろ」と鉄道省や旅行業者に圧力をかけてきた。
 そのような時代背景の中で、箱根温泉旅館組合の執行部は伝統の箱根温泉の今後の有り方について、模索を続け、「温泉と体力」を結びつけた国策温泉報国を旗印に他の温泉地に見られない積極的な箱根温泉の紹介と宣伝を進めた。昭和十三年(一九三八)の秋には、東京の銀座・上野・新宿のデパート屋上に、「鍛えよ銃後の秋、箱根温泉」の文字を掲揚した。同年の事業計画の内容にも戦時色が濃くなってきた。事業項目を二、三拾ってみても、平和な箱根温泉場が戦争協力への道を歩むようになったことを感じさせる。

・観光報国週間座談会

 その年の四月二十一日に、観光報国週間の座談会が温泉小学校に開催され、旅館ホテル関係者を初め、交通業界、物産店等の関係者多数が出席した。政府から国際観光局の津村宏一嘱託と、神奈川県から佐藤伝衛が講師として出席、観光を通しての銃後奉公と国策協力について講演があった。

 ・傷病将兵委託温泉療養受入

 満州事変及日中戦争による傷病将兵の温泉療養に箱根温泉がその委託を受けることになった。このための会議が湯本町役場に開催され、神奈川県の社会課長、保安課長、衛生課長が出席、軍関係及び警察関係者と箱根温泉旅館組合が協議した。昭和十三年三月二十二日の会議において、傷病兵一人について一日二円五〇銭をもって神奈川県と組合が協定を締結した。さらに、銃後後援強化週間が設けられ、戦没将兵遺家族並びに傷痍軍人及びその家族の宿泊に対する協力が旅館組合に強く要請されてきた。組合はこれらの受入れのため役員会を頻繁に開催した。「外事関係講演会」の開催もしだいに多くなり、半ば強制的に、大は学校の講堂を会場とし、小は村の集会場の畳の上で防謀を中心とした講演会が開かれた。講師は神奈川県外事課長、小田原警察署外事係等であった。

 このころから組合員の出征が頻繁となり、戦場へ向かっていった。

 昭和十六年(一九四一)に入ると、国際情勢も重大化し、特に米国との国交が非常に難しくなってきた。ついにその年の十二月八日、日本は英米に宣戦を布告し太平洋戦争へと突入していった。旅館に宿泊するにも主食持参という食糧事情の悪化が国民のうえにのしかかってきた。

カテゴリー: 1.戦争と箱根温泉   パーマリンク

※本文書は昭和61年発行の『箱根温泉史』記載事項です。現在の事実とは異なる部分があります。

コメントは受け付けていません。