【強羅早雲閣 関戸フサ子さん】

 私共の旅館は、あまり大きな旅館ではありませんでしたが、主人が兵隊にとられ、女、子供が残されました。それでも戦争が勝利に終わるよう一生懸命働きました。
 一番苦労しましたのが食糧です。次に燃料の不足も大変でした。冬場の燃料は木炭を自分たちで焼いて補っておりました。昭和十六年の冬までは、役場から炭の配給がありましたが十七年からは全く配給がなくなりました。衣料品の購入も切符制になりましてね、足袋から縫糸まで配給でございました。

 主人が戦争に征く前の年(昭和十八年)まではどうにかお客様もぽつぽつありました。主食が配給でしたが始めのころは、業務用の配給がありましてね、お酒が一人一合と、外米でしたがお米も少々ありました。十六年の六月から業務用は全部配給が止まりました。魚などもさしみは配給になりませんから、お客様へは焼き魚が一番のごちそうでありました。そのころからは一般の宿泊客も無くなり、小田原在か、山北・伊勢原・国府津などの農家の人たちが、お米や野菜を持参して、二日、三日と泊って帰られました。農家の人の泊りは一食白米一・五合ときめておりました。普通ご自分の食べる分と、宿代の一部として一升ほど持参されました。

 そのうち横浜の学童疎開が入りまして、一般客は全部お断りしました。十九年の八月から疎開学童を四〇〇人ほど引受けました。主人は海軍に召集されましたが父親が元気でしたので大変気丈夫でした。
 強羅のケーブル線が廃止になりましたので、疎開児童の配給品は下の強羅まで歩いて取りにいきました。米も野菜も、魚も油なども、六年生の子供がみなリュックサックを背負って運んでいたのです。庭の空き地は全部畑にして、たべられるものは全部山から採って、山にない大根とかお芋を植えました。お花と、とうきびは、贅沢だということで、南瓜、なす等の食べものを多くつくりました。

 疎開児童の中には、親ご様が横浜の空襲で亡くなったり親元が恋しくなって泣き出したりして、引率の先生方も大変でしたね。初めのころは箱根山が珍しくよく遠出をしておりましたが食糧が乏しく、お腹が空いたのでしょう、あまりよろこばなくなりました。宿屋の窓から、いつも横浜の空を見ている子供もありましてね、ほんとうに可哀そうでした。「あーこれが戦争なんだなぁ」と思いました。ときには親ご様の面会もありましたが、面会に来ない親ご様もありましてね、先生の方で苦労なさっていました。旅館を経営しておりましたおかげで、この疎開児童をお世話できたことを有難いと思いました。一人でも多く元気で横浜へ帰れることばかり祈っていました。戦争中旅館の女将として苦労はたくさんありましたが、戦争が終わって疎開児童が横浜に帰るのを見送ったとき、私はこう思いました。「私の役目もこれで終わった。全員が無事で帰れることを神様に感謝します」と。

 この関戸フサ子さん(七四歳)は、大正十五年開業という強羅早雲閣のご主人です。

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※本文書は昭和61年発行の『箱根温泉史』記載事項です。現在の事実とは異なる部分があります。

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