【宮之下奈良屋 安藤兼子さん】

 戦時中の箱根温泉は、兵隊さんの療養所とか、集団学童疎開の宿舎などに旅館をあげてお国のため御奉公いたしました。

 戦争が激しくなって、食糧が全部配給制度になりまして、調味料などは二か月に一ぺんぐらいありましたでしょうか。もちろんお米などもとどこおり勝ちで、主食として外米のほか、さつま芋やお砂糖が配給になるときもありました。七分づきどころか、四分づきのお米が配給になりました時は、手造りの一升びん精米機をつくって、米つきをやりました。

 お気の毒に思いましたのが、戦争中の新婚の若い方でしたね。お米を持参されてご自分たちのほかに私どもの宿へも分けて頂きました。そのころの若い方はものの考え方がしっかりしておいででございました。きっと結婚後すぐ戦場へ征かれることもあったでしょう、もの腰や言葉が大変立派でした。生還を期さないお覚悟が見えました。宿の女将はこういうお客様の翌朝のお立ちには、胸がつぶれるほど悲しく思いました。

 食糧の足りないのには我慢するということもできますが、冬場の暖房燃料のないことはとても我慢ができませんでした。

 昭和十九年になりまして、横浜の学童疎開が入りました。食糧の不足は私どもと、引率の先生方で苦労しながら育ち盛りの子供さんにたべさせました。温泉は豊富にありますが、炊事用の薪がありませんので、私どもの持山の浅間山に疎開児童と一緒に採りにいきました。小学校五、六年生の子供さんが少しずつ背負って帰ってくるのですが、本当に哀れでなりませんでした。そこで私は主人と相談して、縁戚の家をこちらで新築してあげて、その取り壊した古い家屋を箱根へ運んだのです。町場の仕舞屋ですが、角材などはしっかりしておりました。その薪が半年ほどもちましたでしょうか。
 そのうち、煮炊きは水から沸かさず、温泉を用いることにしました。お米も温泉を用いて炊きましたので、薪が半分で済むようになりました。

 太平洋戦争と奈良屋旅館と言えば、やはり横浜の間門国民学校の学童疎開とのつながりでございましょうね。旅館は開店休業の状態でありましたから、毎日子供さんとの対話が続きました。

 戦争中はお米とか、調味料とか、お口に入るものすべてのものが統制品でありましたが、食糧品以外の生活用品もすべて統制でございまして、チリ紙一枚自由に買うことができませんでしたからね。
 お掃除用の雑貨品なども手に入ることはありません。私どもはそう申し上げてはなんですが、創業が古いものですので伝統を守るとでも言いますか、家柄を守ることを大事にしましたね。この広い建物の内外は毎日お掃除をしましたが、戦争中の品物がない時代でもお掃除用の道具は早くから買い溜めして置きましてね、終戦までなんとかもちました。

 昭和十八年ごろから一般のお泊り客もだんだん少なくなりましたが、「奈良屋」を希望されてのお客様ですから粗相はできません。お食事なども気をつかいましたよ。家族の食べ料を廻したりしましたが、闇のものはいっさい買ったことはありませんでした。そのころのお客様が、当時少しばかりお世話したのですが、「とてもうれしかった」と今でも訪ねていらっしゃいます。有難いことでございます。

 疎開学童のお食事は雑炊が多うございましたが、ときにはまぜ飯を炊くことがありました。人参のきらいな子供さんが大勢いましてね、まぜ飯の中からきれいに人参を拾い出す子供さんがおりまして食べさせるにも先生方は御苦労なさいました。そこで私は一工夫しましてね、まぜご飯の時には、必ずバターいためをすることにしました。そうしますと、ご飯の中から人参を拾い出さず、よろこんでたべるようになりました。私の家では今でも孫たちに、人参のまぜご飯はバターいためにしております。

 戦争中は一般のご家庭でも、食生活はお困りであったと思いますが、旅館の経営が大変でございましたよ。このモザイクの板の間が学童の食堂でございましてね、ゴザを敷いて座ってのお食事でした。

 と語る旅館の主安藤兼子さん(八〇歳)は、箱根の老舗旅館奈良屋の女将として、戦前戦中後を箱根温泉の旅館経営に専念し、多くの顧客から慕われているという。

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※本文書は昭和61年発行の『箱根温泉史』記載事項です。現在の事実とは異なる部分があります。

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