【強羅初音 大藤アサさん、大藤キヌ子さん】

 戦争が激しくなった昭和十四年から十五年にかけて、箱根の温泉旅館はだんだんさびれてきましたね。
 旅館自体も、人手がなくなるしお掃除するのが精いっぱいでしたよ。旅館の玄関はどこでも広いでしょう。少し風が吹いても戸ががだんがだんと音を立てます。私はその音が淋しくてたまりませんでした。お客様も今のように、関西とか東北とか遠い国のお客さまはありません。手前共のお客様はほとんど県内の方で、国津府、二宮、平塚方面の方が多かったと思います。

 食糧は配給でしたので、お泊りのお客様はお米持参です。お酒などは、初めのころは業務用もありましたが、十五年ごろからなくなりました。農家や漁業の方などは、そっと濁酒をお持ちになっていました。

 戦前のお客様は、箱根温泉の湯治を大変好まれていたようです。小田原から電車で強羅に登り、ケーブルカーでこの早雲山まで来て泊っていかれました。戦争中にケーブルカーが廃止になって、私など配給物を受け取りに行くには、リュックを背負ってこの上り下りを歩いたものです。あらゆる物が統制になって、配給になりました。統制でも品物があっての統制ですと、なんとか工面して闇でも買うことができましょうが、元から品物がないのですから、どうしようもありません。強羅駅前のお茶屋さんの店先は、いつも白いカーテンが黄色くにじんだ色になって締まっていました。月に何回か、配給物を強羅まで頂きにまいりました。配給所は今の強羅タクシーのところかと思いますが、ご近所の人たちとお逢いして、立話しをするのが楽しみでした。

 そのうち県の命令で、都会の国民学校の子供を箱根の旅館に一万人ほど疎開することになりまして私の旅館も、石川国民学校の児童をお引受けすることになりました。米はないし、味噌も醤油も、塩もない時代でしたから国のためとは言いながら大変でございました。米も配給所へ頂きにいきます。六年生か五年生でしたね、自分のリュックサックを背負って強羅まで歩いてきました。
 あるとき、お米の配給がありましたので、山菜などを入れてまぜご飯を炊きました。ところが炊きあがったご飯が、真っ赤なんです。どうしたのかと、皆んなして考えてみますと、子供さんのリュックの中に赤いクレヨンが入っておりましたが、知らないで配給米をそのままリュックに入れて帰り炊いたのですが赤いご飯ができたのには驚きました。
 山菜はとりつくしたという程根こそぎ集めましたし、畑の収穫も馬鹿にはできませんでしたよ。燃料もありませんでしたから自給自足で、薪取りや炭やきも随分やりました。配給がないのですから自分たちで造り出す必要があったのです。

 戦争中道了尊箱根分院に、海軍の人で病院から退院した兵隊さんの訓練所がありました。私の旅館も、学童を入れた部屋を除き、二部屋ほど軍の命令で面会所に当てられていました。訓練所は海軍の病院のようなもので、病院関係の兵隊さんが多くて、疎開児童もずいぶんお世話になりましたね。
 普通は威張っていた兵隊さんでしたが、子供の病気とか怪我のときは、親切に面倒を見てくれまして、その分私どもも、兵隊さんの面会にきた人たちには親切にしてあげました。

 郵便物なども局からは配達されず、毎日毎日強羅の局まで取りに行ったものです。

 このごもに語る、戦争中の箱根温泉旅館の苦労話は、いつまでも尽きなかった。この旅館の主は、強羅温泉初音の女将で、大藤アサ(七七歳)さんと大藤キヌ子(六四歳)さんのお二人である。

カテゴリー: 1.戦争と箱根温泉   パーマリンク

※本文書は昭和61年発行の『箱根温泉史』記載事項です。現在の事実とは異なる部分があります。

コメントは受け付けていません。