【学童集団疎開の実施】

 大都市の学童の疎開が問題になったのは、戦局がますます不利となりつつあった昭和十八年(一九四三)である。国土防衛態勢の徹底強化の方針に基づき、政府はすでにその対策を企て、同年十二月十日には、「疎開ニ伴ウ生徒児童ノ取扱ヒ措置ニ関スル新聞発表」を行った。当初は、縁故疎開が奨励され、東京都を中心に学童疎開が進められていた。その後戦局の急激な推移により、「学童疎開促進要網」(閣議決定一九・六・三〇)が決定された。しかし政府は国民の動揺を防ぐため、この要網を発表したのは翌七月十八日である。

 この公表に至る間の政府の動きについて、「横浜市教育史第八章、戦争と教育」は次のように述べている。

   学童集団疎開実施の基となった「学童疎開促進要網」が閣議で決定された
   のは昭和十九年六月三十日である。この閣議の内容は極秘とされ、国民に、
   その内容が新聞で発表されたのは七月十八日であった。それに先だって
   七月八日、午後二時から内務大臣邸に、東京都長官・警視総監・神奈川
   県知事外十二県知事が招集され、安藤内相・文部省藤野総務局長以下の
   出席のもとに、学童疎開の具体的方法についての意見が交換された。
   これを機会に、「情報局発表」がなされ、学童疎開に関する政府の方針が
   明らかにされたが、これに対して「朝日新聞」(昭和十九年七月十八日)は
   「切迫する戦局に歩調を合せて、学童疎開が急速に発足することにきまった。
   ベルリンも敵首都ロンドンも既に学童疎開を行っているが、幾万幾十万の
   国民学校児童が親の許をはなれて地方にゆくとなれば予想を超えたいろいろの
   問題が起こってくる。しかし、二六〇〇年の血が通う大和島根の学童疎開は
   また別である。都会と地方とが一家族のこころになり切り、両親と先生が
   一心同体となりきって、世界に類のない輝く学童疎開を展開完成せしめ
   ねばならぬ」

また同書は、

   全国で疎開を実施する都市は、東京、横浜、川崎、横須賀、大阪、神戸、
   尼ケ崎、名古屋、門司、小倉、戸畑、若松、八幡の十三都市であって、
   疎開学童数は約四〇万人と推定された。この人員推定数により国庫補助が
   算定され、疎開児童数をこの範囲内でおさえることとなった。各都市の
   疎開先は一次計画では次のとおりであった。

     (括弧内は疎開学童数、疎開先県)

  東京 (二〇万人 宮城・山形・福島・茨城・栃木・群馬・埼玉・新潟・
  静岡・長野・山梨)
  横浜 (二・五万人 静岡)
  川崎 (〇・七万人 静岡)
  横須賀(〇・八万人 静岡)  ―以下略―

と述べ、岡部文部大臣が記者団の質問に答えた次のような談話を載せている。

    学童の疎開の目的は、質問の通り、児童を空襲下の都市から安全地帯に
   避難させるものであるが避難というような消極性をもたず、むしろ学童の
   戦争参加という積極性を備えてゐる。一旦都市が空襲を被った際、いとけない
   子供たちを安全地帯に送ってあるということがどれだけ空襲下の活動を活発に
   するかは改めていうまでもないが、一方地方に疎開した学童たちとしては、
   この際にこそ独立不撓の心身練成を期せねばならぬ。昔武士は幼少時代必らず
   親の手許を離れて、よそに預けられ、みっちり躾をうけたもので、軟弱と
   いはれた公卿たちの間にも愛子を暫く里子に行かせる厳しい風習があった位だ。

 神奈川県は、先の「学童疎開促進要網」に基づき、横浜、川崎、横須賀市の三市学童集団疎開実施要領を作成し、三市協力の下に学童疎開の準備に当たった。閣議決定による児童の疎開先は静岡県であったが、近藤壌太郎神奈川県知事は、三市の学童は、すべて本県内で受け入れたい、と強く要望して当初の計画を変更させた。県知事としても幼い学童を遠くへ離すことによる不憫さがあったのかも知れない。また、この前例のない集団学童疎開の事業を同県人の情に訴え協力を願ったのかも知れない。

 神奈川県はこの三市学童集団疎開実施要領の実施にあたって、昭和十九年七月十日教育会館会議室に関係者を集め協議を行った。当日の会議に出席した者は次のとおりである。

    服部神奈川県教育課長・相模神奈川県視学・三市市長・助役・教育部長
   以下関係課長・市視学・疎開課長・物資配給課長・校長会

 この説明会終了後、各学校長は同月十五日から十七日までの間に父兄会を開催し、学童疎開の実施にふみきることとなった。

 七月二十八日の神奈川県臨時議会は、この学童集団疎開の総費用を二三〇〇万円と定めた。事業の八割は国庫補助として、二割を三市がそれぞれ分担することになった。県は、補助金として三市分担金の三分の一約一三五万円を当日の臨時議会で可決した。県内三市一一三校七万学童の集団疎開事業は、二〇〇〇万円を越えいかに不可欠の大事業であったかがうかがい知れる。

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※本文書は昭和61年発行の『箱根温泉史』記載事項です。現在の事実とは異なる部分があります。

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