【激化する都市空襲】

 昭和二十年(一九四五)に入ってからは戦局もますます重大になり、都市を初め港湾に対する空襲が頻繁になった。横浜市には昭和十九年十二月の鶴見、港北の空襲を最初に連日のように米軍機が来襲した。このような情勢下で箱根に疎開した学童は、両親兄弟、姉妹の安否を気遣いながらも元気に過ごしていた。そのうち、学童の実家が空襲の犠牲になり焼失するという便りもあって、家郷への思いがつのり子供心にも不安がめばえ始めた。

 サイパン・テニアンを奪回し、飛行場を整備したアメリカ軍は、本土空襲を本格化した。昭和二十年二月十六日、米軍艦載機数百機が横浜・川崎に来襲し、銃爆撃を加えた。
このころからアメリカ空軍の戦術は、大都市への焼夷弾投下へと変わっていった。同年三月十日、約三〇〇機のB29が東京に来襲、一六六五トンの焼夷弾を投下した。東京の下町は火の海と化し、死者は一〇万名に及んだ。四月四日には横浜臨海工業地帯が爆破され、死者二一四名、負傷者二一一名を出した。

 五月二十九日の横浜大空襲はすさまじいものであった。昼間高高度で横浜上空に進入したB29五一七機は一時間あまりで大型焼夷弾二万二二一四個、小型焼夷弾四一万五九六八個を投下する絨毯爆撃を強行した。横浜の市街地は廃墟と化した。罹災家屋七万五〇〇〇戸、罹災者三一万名、死者四〇〇〇名、負傷者一万名といわれる大被害に市民は絶望のどん底に追い込まれた。

 旅館組合は、戦災をうけた保護者への救護対策を昭和二十年六月四日の理事会にはかった。当初は疎開児童受入旅館のみを対象としたが、出席者の中から、「疎開児童受入旅館に限らず、組合員全員からの救護対策とすべきだ」という発言もあって、「横浜市戦火見舞金醵出」を決定した。見舞金総額の第一次分として一万円を予定し組合員全員に割賦した。

   承諾書

  昭和二十年六月四日ノ理事会ノ決議ニヨリ横浜市今回ノ戦災ニ対し当箱根集団疎開学童ニ影響アル
  罹災方面に見舞金ヲ贈呈スルノ件並ニ当該醵出左記割当金額ヲ承認致シ候
   尚見舞金贈呈先ハ理事長ニ一任スルコト
    全員取扱方ハ組合扱ニテ横浜市が当方ヘ支払ハルベキ次回ノ宿舎費ヨリ差引セラルル事
     見舞金総額金壱万円也
       内私儀割当醵出金
        一金参百八拾円五拾銭也
     右ノ通後日ノ為メ承認書提出仕候

     昭和二十年六月 日
                  足柄下郡温泉村
                          氏名 安藤 茂武
  箱根温泉旅館施設組合
   理事長 石村喜作殿

 組合員全員はこの決議を了解して、石村喜作外五七名全員が割当額を提出している。組合には前記の醵出承諾書が綴りとして保管されている。

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※本文書は昭和61年発行の『箱根温泉史』記載事項です。現在の事実とは異なる部分があります。

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