【父母のもとへ】

 昭和二十年(一九四五)八月十五日、日本は敗戦を迎えた。空襲におびえながら遠く離れた我が子を気づかう横浜の父や母にも、安堵の時が流れた。やがて、八月三十日、連合国総司令官マッカーサー元師が幕僚を引きつれ、厚木飛行場に到着、直ちに横浜のホテル・ニューグランドに入り、税関ビルを総司令部として日本の占領統治を開始した。

 空襲で大打撃を受けた横浜市民も焼跡に小さなバラックを建て、雨つゆをしのぎながら懸命に生活の再建を始めた。なにはともあれ、疎開先の我が子を横浜に連れ戻さなければならない。

 箱根山の各温泉地から疎開学童が、両親のいる横浜へ帰っていったのは、敗戦の混乱も少しおさまった昭和二十年十月二十三日からであった。学童の集団疎開を受け入れ、並々ならぬ苦労をともにした箱根旅館組合では、疎開児童の横浜引揚げを、それに伴う宿舎解消の仕事が終わった翌二十一年六月、塔之沢の組合事務所で開催された戦後第二回通常総会において、次のような「昭和二十年度事業報告」を行い、学童集団疎開終結の宣言をした。

    昭和二十年度ハ前年ニ引続キ戦端益々苛烈ニ向ウト共ニ当組合旅館ハ専ラ
   横浜市集団学童疎開ノ児童擁護ト傷痍軍人治療所タル本旨ニ従ヒ努力継続中
   ナリシ処、八月十五日鳴呼吾等幾生モ忘ルル能ハザル終戦トナリ只々一時ハ
   夢路ヲ辿ルノ思ヒ致センノミ。然シ乍ラ之等ノ事情漸次に判明シ来タリ、吾等ハ
   国家再建ノタメ世界恒久平和確立ノタメ各々其職分ニ何ト努力スベキ秋ナル
   事ヲ悟ル。
    傷痍軍人並ニ疎開学童ヲ擁護シタル箱根ノ職域奉公ハ終戦ノ今トナッテ
   今後国家再建世界平和確立ノ為メ如何ニ大切ナリシカヲ思ヘバ、各組合員
   共満一ヶ年有余ノ努力ハ自ラ慰メトナルヲ覚ユ。
    箱根ハ愈々国際融和機関トシテ其ノ本分ヲ拡大シ、各組合員共畢生ノ努力ヲ
   以テ世界平和克復ニ邁進セム。
    当組合ニ関スル各種事項左ノ如シ。

   一、傷病軍人病院並ニ学童集団疎開宿舎解消
   戦禍ヲ避ケ専ラ保護ニ専念シタル傷痍軍人宿舎モ、横浜市集団疎開学童宿舎モ、
  無事終戦ト同事ニ解散シソレゾレ住所ニ帰還ヲ完フセラル、戦争の終結如何ヲ
  問ハズ保護ノ目的ヲ完ウシタルハ不幸中ノ幸ナリ。
   古今未曾有ノ戦禍ヲ、箱根ノ山岳地ニ避ケ肌ヲ刺ス極寒ノ真只中草蒸ス
  真夏ノ炎天ニ、炊事用ノ薪炭或ハ食用ノ野草採集ニ谷川ヲ渡リ、山岳ヲ
  (足偏に友のような字)渉シタル苦節ハ言語ニ絶スルモノアリ。一ケ年余ノ
  苦労ハ幼キ学童ノ心身ニ想像モ及バヌ影響アリト信ズル。
   サレド、児等ヨ、箱根カラ受ケシ自然ノ恵ミヲ心ノ糧トシテ、国際平和
  確立ノ為メ有為ノ人物輩出スルモノト信ズ。

 太平洋戦争下に国の政策により疎開を余義なくされた一般国民は、全国で七六九万人にのぼり、その内学童疎開は、七九万人であったという。

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※本文書は昭和61年発行の『箱根温泉史』記載事項です。現在の事実とは異なる部分があります。

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