【陸軍病院臨時箱根療養所】

 箱根が陸軍病院の療養所、又は分院として傷病将兵の療養のため活用されたのは、第二次大戦のみではなかった。日露戦役の傷病兵を治療するため、明治三十七年(一九〇四)八月十八日に芦ノ湖畔に収容された軍人は、一一七八人であった(「横浜貿易新報」明治三十七年十一月二十六日)。明治三十七年八月二十一日の『ベルツ日記』によれば、この傷病兵はほとんどがカッケ患者であり、高地転地療養が目的であった。転地療養は同年十一月十九日終了したが、その効果には見るべきものがあり、死亡した傷病兵は二名にすぎなかった。

 箱根湯本の旅館が、傷病軍人の療養所として今次大戦下のある時期接収されたことは記憶に新しい。
 だが、傷痍軍人療養所の性格なり、その経緯を知る人も少なくなった。また戦時下の出来事として多くの資料(書類)が焼却され、現在は早川に架設された「ほまれ橋」がその名残りを止めるにすぎない。この療養所の正しい名称は、臨時東京第一陸軍病院箱根臨時転地療養所である。
 昭和十七年四月に開設され、第一次収容の傷病兵は三〇〇人であった。当初は箱根湯本の箱根三昧荘を本部として開設された。収容対象はいずれも公傷一種の陸軍の将兵であった。

 臨時転地療養所の施設責任者(管理者)は、東京第一陸軍病院であった。勤務した軍医官、衛生下士官及び兵並びに看護婦はすべて陸軍省東京第一陸軍病院の人達で、看護婦はその他に日本赤十字社の救護看護婦が召集されていた。勤務は、陸軍看護婦と救護看護婦とも同じで宿舎には、塔之沢「よきや旅館」が充てられていた。
 衛生下士官及び兵等の宿舎には、湯本万寿福が当てられた。所長は、東京第一陸軍病院から派遣された陸軍軍医少佐大越新一であった。大越少佐は終戦後復員して宇都宮市内に医院を開業したが昭和四〇年死亡している。

 箱根臨時転地療養所は、昭和十九年一月に名称と機構を「臨時東京陸軍病院箱根分院」と改めた。分院の院長として新たに、東京陸軍病院から派遣された責任者は、陸軍軍医中佐小泉万次郎である。小泉中佐は終戦により職を解かれ、九州日赤病院の院長として復員したが、昭和五十年に九州で死亡している。
 箱根臨時転地療養所は、昭和十七年開所当時、箱根三昧荘のみであったが、戦局の拡大とともに、傷病軍人の数も多くなり、昭和十九年一月には、療養所施設の数を増加した。

 昭和十九年一月以降における箱根分院の分散施設は次のようであった。

   旅館名     患者数     収容者区分     備考

   箱根三昧荘   四〇〇     分院本部一般兵   
   吉池旅館     六〇     一般将校病棟   
   新玉旅館    二五〇     下士官兵眼科   
   一の湯旅館   三〇〇     下士官兵内科   
   環翠楼     一五〇     飛行科将校     航空病棟
   福住楼(塔之沢)二二〇     下士官兵耳鼻科   
   清光園     三〇〇     下士官兵外科   
   万寿福     ―       衛生兵(看護兵)   
   よきや     ―       看護婦寮  

       計  一、六八〇   (収容患者の数は延概数である)  

各病棟の病室は畳敷きであったが、一部にはベット式の病室もあった。傷病軍人は、専ら療養に専念し治療を続けたが、比較的元気な傷病兵は原隊復帰を予想して体練につとめ、日課の中には遠足等の外出訓練もあった。外出訓練は、徒歩や箱根登山電車を併用して、仙石原、小涌谷、箱根神社への行軍であった。
 「外出訓練の途中、休憩所が指定されており、中でも仙石原の万岳楼、仙郷楼を初め、宮城野小学校、奈良屋、つたやの各旅館等からうけた親身の接待は参加した者として今でも忘れられません。」と当時の参加者(元陸軍衛生准尉萩原政治)は語っている。

 このほか戦時下の箱根分院の出来事や当時の背景を知るよすがとして次のようなことを記録として残しておきたい。

◎防空壕と避難口を兼ねて隧道を掘った。
 箱根分院の本部は、都市空襲が頻繁になった昭和十九年の秋から翌年の夏にかけて、分院本部の裏山(三昧荘)から湯本小学校の校庭へ通じる隧道を掘った。傷病兵の体力増強と、食糧品、医薬品等の貯蔵庫を兼ねて毎日作業を続けた。この隧道も終戦と同時に作業が中止となった。

◎医療器材の長野県転送計画
 昭和二十年の初夏、陸軍省は大本営の長野県移転を実行に移しつつあった。これに伴い陸軍病院等の医療機関も長野県へ移転することになったので箱根分院に常時備蓄されていた軍用医療器材薬品等五〇〇〇人分の半数を長野県へ移送した。 

 箱根分院では軍の施設というところから、地方行政との関連はなかったが、湯本町の住民は協力をおしまなかった。愛国婦人会湯本町支部、国防婦人会湯本町支部、湯本町青年団、湯本町女子青年団等は勤労奉仕や病院慰問を行った。一方分院の衛生下士官は平塚以西富士市までの各青年学校生徒に対し、救急包帯法の指導をした。

 陸軍の病院であったが、インド洋海域での海戦に参加したドイツ海軍のUボート乗組員の戦傷兵も収容されていた。
 また外国の軍人では、タイ、カンボジアの日本陸軍士官学校留学生が入院していた。陸軍の高官としてはフィリピンで戦犯として処刑された、本間雅晴中将も入院した。この分院には東久邇宮妃殿下がお成りになったことがある。

 戦争中箱根分院の傷兵の日常生活を記録した三五ミリのフィルムが、日本大学芸術学部に保存されているということである。この映画は国威宣揚のため、陸軍省が日本大学に依頼して昭和十八年に撮影したものである。

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※本文書は昭和61年発行の『箱根温泉史』記載事項です。現在の事実とは異なる部分があります。

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