【在日外国人の箱根疎開】

 戦局が切迫した昭和十九年、外務省は空襲時における在京外交官とその家族の避難に関し、関係諸官庁と協議の結果、疎開場所を箱根と軽井沢に決定、箱根では富士屋ホテルと強羅ホテルを指定した。
 富士屋ホテルを宿舎としたのは、ドイツ、イタリア、タイ、ビルマ、フィリピン、満州国、中華民国の大使館員及び武官であった。一方、強羅ホテルには、十九年末にマリク駐日大使以下ソ連の関係者二〇〇名が収容されたが、防空訓練に参加するなど住民との間に友好的交流もあったという。当時は既に食糧、燃料等の諸物資が乏しくなっていたが、政府の命令によって行われたこれら外交官の疎開に対しては特別の増加配給が配慮された。

 昭和二十年、米軍機による本土空襲が激しくなると、政府は東京、横浜などに居住する一般外国人をも箱根と軽井沢に集結する方針をとったので、富士屋ホテルは同年三月末日限りで一般客の営業を停止し、全館を外国人の収容にあてた。この他、万岳楼の貸別荘や仙石原高原、湖畔、小涌谷などにも枢軸国の外交官や民間人の数家族が疎開したので、外務省は昭和二十年五月、富士屋ホテル内に箱根事務所を設置し、大使館関係や一般疎開外国人との連絡業務に当たった。

 八月十五日終戦を迎え、連合軍による占領が始まると、枢軸国外交官は全員強羅ホテルに移され、富士屋ホテルは連合軍に接収された。サンフランシスコ講和条約発効後の昭和二十七年六月末日接収は解除されたが、その後も二か年アメリカ軍が専用し、一般営業に戻ったのは昭和二十九年七月四日であった。(富士屋ホテル八十年史)。

カテゴリー: 4.戦時下の外国人   パーマリンク

※本文書は昭和61年発行の『箱根温泉史』記載事項です。現在の事実とは異なる部分があります。

コメントは受け付けていません。