【変化する入浴客】

 終戦からなお引き続いた食糧難、現金封鎖等による深刻な危機感が国民生活に浸透していった。平和が到来したという開放感はあったものの多くの人々にはまだ温泉旅行を楽しむほどの余裕はなかった。
 箱根の温泉旅館やホテルでは、戦時体制下の施設として学童集団疎開や陸軍の傷病兵の療養に大部分を提供していたため、平和時となってもすぐ旅館経営を再開することができなかった。それでも終戦の翌年ごろからは、多くの旅館が客室を修復し、営業を始めた。再開時の箱根温泉にとって最大の客は、前項でも述べた進駐軍の将兵であった。

 昭和二十二年十月十一日、東京地裁山口良忠判事は、「今こそ判検事は方の威信に徹さねばならぬ」といっさいのヤミを拒否し、配給生活を守っていたが、ついに栄養失調死した。主食遅配が全国で二〇日ともなったこのころ、山口判事の死は、国民に大きな衝撃を与えた。温泉旅行どころではない、それが一般日本人の実状であった。

 ところが、箱根温泉の旅館には正体のわからぬ一群の日本人が札束を抱えて出入していた。それらの人々は、政府の取締りにも拘らず、ヤミ物資を動かす闇成金であった。彼らは敗戦のドサクサをうまく利用し、金もうけに狂奔した。箱根温泉は、彼らにとってもうけた金を湯水のように使う場所であり、うまいもうけ口の密談の場所でもあった

                                     (児島豊)

カテゴリー: 1.終戦と箱根温泉   パーマリンク

※本文書は昭和61年発行の『箱根温泉史』記載事項です。現在の事実とは異なる部分があります。

コメントは受け付けていません。