【箱根山交通戦争】

 小田急電鉄・箱根登山によって箱根に向けての交通機関が整備されていくなかで、それに対抗するように駿豆鉄道(現・伊豆箱根鉄道)も箱根山をめぐるバス路線獲得に乗り出した。第二次箱根山交通戦争の開幕である。

 昭和二十二年(一九四七)九月、駿豆鉄道は、小涌谷―小田原間のバス路線の免許を申請した。同線のバス路線は、一号国道の上では小涌谷までしかなく、観光地のバス路線としては小田原まで進出することが至上命令であった。
 駿豆のバス路線延長申請は、当然のことながら従来この路線を運行していた箱根登山の反対にあい、二年余りもめつづけたが、昭和二十四年十二月二十七日、次の三条件により免許された。

   一 底倉―小田原間は無停車
   一 底倉―小田原間の定期運行回数は平日五回、土・日・祭日は臨時便を加えて
    一〇回を限度とする。
   一 土・日・祭日箱根登山が臨時便を運行する場合、駿豆はその四分の一とする

 このような条件で駿豆のバスが小涌谷―小田原間を走り出したのは、昭和二十五年三月からである。

 受け身に立った登山は、駿豆の牙城芦ノ湖めざして反撃を開始した。駿豆の小田原乗入れの代償として、早雲山―湖尻間の駿豆所有の専用道路に登山のバス路線を免許するよう申請したのである。登山側の狙いは、戦争中撤去された強羅―早雲山間のケーブルカーの復旧工事が進み、昭和二十五年(一九五〇)七月一日運転を再開するに伴い、ケーブルカーで運んだ観光客をバス路線がないためみすみす駿豆に取られてしまうことを阻止するためであった。
 今度は守勢に立たされた駿豆は、私有一般自動車道への乗入れは、私有権の侵害であると反論したが、自社の小田原乗入れが許可された以上、徹底抗戦策をとらず運輸協定を結んだ方が有利と判断し、運輸省へ申し入れ、昭和二十五年四月十五日協定が成立、同年七月一日ケーブルカー再開と同時に登山バスも運行されるようになった。

 東急系の箱根登山・西武系の駿豆鉄道、二大交通資本を背景とする箱根山の交通戦争は、芦ノ湖にも及んでいった。

 すでに第四章でも述べたように芦ノ湖の湖上交通を含む奥箱根一帯は、西武の堤康次郎の手中に収められていた。堤は箱根遊覧船の設立、専用バス道路の整備など芦ノ湖周辺の交通網を独占的に支配していった。堤=駿豆のこの独占支配を打ち破るべく機会をうかがっていた箱根登山は、駿豆と若干の軋轢があった箱根町と仙石原一部有志が計画した湖上遊覧を含む開発計画があまり進まないのに目をつけ、新たに箱根観光船株式会社を設立させ、湖上交通への進出に乗り出した。

 独占の牙城に踏みこまれた駿豆はあらゆる手段で箱根登山の動きを封鎖しようとしたが、成功せず、昭和二十五年(一九五〇)八月一日、箱根観光船は湖尻桃源台―箱根町間の直線コースに就航を開始した。駿豆独占の夢が破れ、芦ノ湖に二社の遊覧船が行きかうようになると、観光客をめぐっての両社の競争対立が激化していった。 

 一方小田原行のバス路線での競争も激しくなった。当初の三条件が次々と破られ、昭和二十七年には三条件は全面解除となり、小田原駅頭でのお客の奪いあい競争が始まった。
 このような競争、対立を駿豆は法廷闘争に持ちこんだ。箱根登山も受けて立ち、ときには運輸省・海運局を巻き込む訴訟合戦が始まった。訴訟事件として法廷闘争となったものは次のとおりである。

◎契約金等請求訴訟事件

       昭和二十七年七月二十一日
       静岡地方裁判所沼津支部
          原告 駿豆鉄道株式会社
          被告 箱根登山鉄道株式会社

◎契約不履行による損害金並びに契約履行等請求訴訟事件

       昭和二十七年八月十二日
       静岡地方裁判所沼津支部
         原告 駿豆鉄道株式会社
         被告 箱根観光船株式会社

◎一般乗合自動車通行運転禁止仮処分申請事件

       昭和二十七年九月二十二日
       横浜地方裁判所小田原支部
          申請人 箱根登山鉄道株式会社
          被申請人 駿豆鉄道株式会社

◎詐欺・職権濫用および道路運送法違反告訴事件

       昭和二十八年九月十二日
       (職権濫用および道路運送法違反)
       東京地方検察庁に告訴
          告訴人 駿豆鉄道株式会社
          被告訴人 運輸省事務次官牛島辰彌
               元自動車局整理課長磯崎勉
               小田急電鉄取締役社長安藤楢六
               箱根登山鉄道株式会社取締役社長河合好人

◎一般乗合旅客自動車運転系統外進行禁止仮処分申請事件

       昭和二十九年三月十一日
       横浜地方裁判所小田原支部
          申請人 駿豆鉄道株式会社
          被申請人 箱根登山鉄道株式会社

◎一般乗合旅客自動車運転系統外運行禁止仮処分異議事件

       昭和二十九年六月十七日
       横浜地方裁判所小田原支部
          申請人 箱根登山鉄道株式会社
          被申請人 駿豆鉄道株式会社

◎一般乗合旅客自動車運転系統外運行禁止請求事件

       昭和二十九年六月二十八日
       横浜地方裁判所小田原支部
          原告 駿豆鉄道株式会社
          被告 箱根登山鉄道株式会社

◎一般乗合旅客自動車運送事業乗入運輸協定無効確認訴訟事件

       昭和二十九年七月二十三日
       東京地方裁判所  
          原告 駿豆鉄道株式会社
          被告 運輸大臣

 国会、県議会においても箱根交通戦争は大きく取りあげられ専門委員会、担当常任委員会の審議するところとなって質疑応答がくり広げられた。

 神奈川県議会の昭和三十五年三月の本会議会期中において建設常任委員会が決議した次の事柄は、両社の紛争解決におおいに役だった。

   ・限定免許反対を県議会の意見とすること。
   ・廃道同然の湖畔県道を早急に補修すること。
   ・駿豆鉄道経営の一般自動車道の買収を促進すること。

 これらと併行して、運輸省も一〇年越しの紛争を解決するためのてだてとして、昭和三十五年七月九日運輸大臣名による関係者の聴問会を実施した。この聴問会は運輸省八階の映写室に招集されたが当日の午前十時五分から午後五時四十六分まで、延々八時間にわたる両社の舌戦であったという。この辺の両社間の思惑は当時報道された新聞記事や、業界紙に明らかであるが、箱根登山鉄道も駿豆鉄道も外聞や見栄をかなぐり捨て、社旗の元に戦った。その後両社の中にも訴訟事案の解決や法理論の定着を待って時を稼ぐより、進んで新展開の方策を検討することに意を用いる考え方が出てきた。

 箱根登山バスの早雲山乗入れが問題となった当初から、箱根登山側ではかねてから箱根山の中央を縦断する一貫輸送ルートの研究に情熱をそそいでいた。小田原・湯本・強羅・早雲山・大涌谷・姥子・湖尻桃源台・箱根元箱根を経て、三島・熱海・湯河原に至る線である。当然早雲山・大涌谷・姥子・湖尻桃源台間はロープウェイが予想された。昭和三十四年四月に、箱根山ロープウェイ株式会社が設立され本格的な工事に着工した。

 桃源台までの全線が開通して運転を開始したのは昭和三十五年九月七日である。

 そういう紛糾の中にあって駿豆鉄道は、昭和三十三年九月二十六日の狩野川台風で駿豆本線に大被害を受けた。ずたずたに切断された軌道の修復には社をあげて昼夜兼行これの復旧に当たり、一〇日間で完全復旧したということである。伊豆半島西海岸の開発と住民生活の基本生命を預る交通機関として駿豆本線は伊豆の大動脈であった。狩野川台風の被害復旧には一日も早い駿豆本線の復旧が望まれていたのである。駿豆鉄道は箱根山の交通戦争にかける闘争心と情熱をこの災害復旧にも投入した。

 箱根山の交通戦争も、運輸大臣の聴問会が開かれ、国も打開策を打ち出し、また世論の批判も高まっていく中で地元の旅館協同組合や観光協会も将来の箱根山を心配し、積極的な意見調整に乗り出していった。その結果、昭和三十六年四月一日から、元箱根―湖尻間の専用道路が県道として開放された。また、昭和三十九年十二月十五日には、箱根峠~十国峠間の専用道路を静岡県が買収し県道として解放された。
 更に一連の動きとして、長期にわたり係争中であった訴訟事件も終結した。

 昭和四十三年十二月二日、東京プリンスホテルに開催された「友好協定調印」には、駿豆鉄道株式会社堤義明社長、小田急電鉄株式会社安藤楢六社長、箱根登山鉄道株式会社柴田吟三社長、東海自動車株式会社鈴木幸夫社長の四人が出席し、懸案であった箱根のバス路線相互乗入れの協定書に調印して、箱根山の交通戦争は実に二十一年ぶりに完全に終結したのである。(「伊豆箱根鉄道六十年史」「小田急五十年史」「箱根登山鉄道のあゆみ」)

                                   (児島豊)

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※本文書は昭和61年発行の『箱根温泉史』記載事項です。現在の事実とは異なる部分があります。

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