【建築ラッシュ】

 増加の一途をたどる観光客を迎えて箱根山の各地には、旅館、ホテルの新設、増改築・ゴルフ場、ボーリング場などのレジャー施設の新設にともない建築ラッシュが起こった。
 箱根の旅館・ホテルの新設・増改築が始まったのは、昭和二十四年(一九四九)「国際観光ホテル整備法」が制定されてからであった。この法律により登録された旅館・ホテルについては、税制上の優遇策が設けられ、原価償却資産の耐用年数についても、租税特別措置の適用を受け優遇されることになった。これらの優遇措置は箱根温泉の建築ブームを起こす引き金となっていた。
 
 建築ブームに更に拍車をかけたのは、昭和三十九年(一九六四)から実施した旅館施設の近代化資金の融資制度である。これは県の中小企業融資制度の一つとして実施されたもので、旅館の増改築、防火設備・厨房設備・暖冷房などの設置改造に要する資金を低利息で融資し、観光地の旅館・ホテルの整備を図ったものである。
 これら一連の法的措置と増加する観光客の需要にこたえて箱根の旅館、ホテルは、新築、増改築に踏み切っていったのである。その具体的な様子を年次ごとに数字としてあげられる資料はないが、箱根町の統計書から昭和四十二年度、昭和四十八年度、昭和五十四年度の箱根各温泉場の旅館ホテル数及び収容人員数からその推移を概観してみよう。
 全体としては旅館・ホテルの軒数にあまり動きはない。しかし収容人員は確実に伸びている。これは増改築に伴う客室の増加を物語っている。地域的に見ると、高度成長下急速に発展した地区と、戦前からあまり動きをみせない地区とにわかれる。前者は湯本・大平台・強羅・仙石原・芦ノ湖であり、後者は塔之沢・宮之下・芦之湯などの温泉場である。

 そのなかでも湯本地区の発展は目ざましい。湯本は、昭和二十年代前半には江戸時代からの温泉場である湯場地区と、関東大震災以後温泉が発見された滝通り地区の二、三の旅館を合わせて二〇軒足らずの温泉地であった。それが戦後の経済発展のなかで年々軒数を増やしていった。旅館営業の地域も湯本駅近くの旭町、旧街道筋の仲町、湯本茶屋、須雲川沿いの奥湯本とひろがり、昭和三十九年の東京オリンピックと東海道新幹線開通前後には大型旅館・ホテルへと増改築が進み、木造旅館が三〇〇名、四〇〇名を収容できる鉄筋コンクリートの建物へと建て(替の下が口)えていった。特に滝通りから奥湯本に至る須雲川沿いの発展は目ざましく、大型ホテルが並行し、昔の風景は一変し、昭和四十二年には五七軒と終戦時の二倍を越えた。
 湯本地区のこのような発展は、箱根山の麓に位置し、交通の便がよいこと、特に小田急の湯本乗入れに伴い東京との距離が至近となり、大都市の市民が慰安旅行としてだけでなく、各種の大会、研修会などいろいろな形で宿泊しはじめたことなどにもよろう。
 
 大平台温泉は、戦後新しく誕生した温泉場である。戦前箱根細工生産を主として生活していたこの地区では、行きづまった生活の転換を温泉開発に求め、昭和二十三年(一九四八)九月、大平台温泉組合を結成、地区民の総意で宮之下にある久保寺建治所有地で温泉掘削を実施することにきめた。昭和二十四年十月三十日温泉掘削に成功したが、宮之下~大平台間二七〇〇メートルの引湯工事は容易ではなく、多くの困難を経て、大平台に送湯が実施されたのは、昭和二十六年(一九五一)六月二十一日であった。以降大平台地区では、箱根細工業者をはじめ旅館業に転業するものが続出、昭和四十年台後半には二八軒を数えるほどになった。
 
 小涌谷地区は、すでにこの地区の開発者榎本恭三(三河屋旅館)を中心に発展していった明治以来の温泉である。この地区が戦後大きく発展したのは、藤田興業の小川栄一が、箱根小涌園を創業、観光事業に本格的に乗り出してからである。小川が小涌谷にあった元男爵藤田伝三郎の別荘で、旅館業をはじめたのは、昭和二十三年八月のことであった。そのころ小涌園は規模も小さく、当時の関係者の談によると、「従業員といえば、大塚支配人以下三名の職員と真鶴出身の女中五名程、本社が十人余り、分掌規定などある筈がなく、取締役も小使いの仕事をし、全員が進んで助けあった」(小涌園創業期のひとこま・監査役松沢萬蔵)という。
 小涌園が本格的な観光レジャー産業としてのホテル経営に乗り出したのは、昭和二十四年(一九四九)十一月六日第一号蒸気温泉が噴出してからである。この大型蒸気温泉の利用については、噴出当初若干の論争があったようであるが、やがて小川社長によって大規模な開発構想が練られ、周辺の民地、共有地を買収し、広大な敷地のなかに箱根で最大の観光レジャー施設を建設していくことになった。
 小涌園の中にはホテルが新設された。これは日本人だけではなく外国人も収容できる本格的な国際観光ホテルであった。こどもの村も設置され、一〇〇万平方メートルの敷地に蒸気を熱源とした温泉でプールなど各種のレジャー施設が開設された。小涌園内にはそのほかボーリング場・多目的ホール、各種の飲食・土産物コーナーなどが備えられ、多角的な温泉レジャー経営が展開されていった。このような小涌園の発展は、戦後の大衆レジャー時代に即した経営方針に基づくものであり、戦後の復活から高度成長下伸展した箱根温泉の典型でもあった。
 
 小涌園の成功の刺激もあり、箱根の旅館・ホテルは宿泊施設の大型化と経営の多角化を志向しはじめた。加えるに芦ノ湖周辺・仙石原高原地帯が大衆レジャー時代のリゾートゾーンとして脚光を浴び、多くの観光客を集めはじめると、西武・小田急系などの交通資本も旅館・ホテル各種のレジャー施設の経営に乗り出してきた。これらの資本は、従来路線バス・ロープウェイ・観光遊覧船などの交通部門を掌握し、戦後箱根の観光開発に意を注いできたのだが、更に旅館・ホテル・レストランやスケートリンク場・アスレチックなどのレジャー施設を開設することにより。箱根を訪れる観光客を自己の傘下施設にできるだけ吸収しようという経営方針を打ち出していったのである。

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※本文書は昭和61年発行の『箱根温泉史』記載事項です。現在の事実とは異なる部分があります。

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