底倉蔦屋の先々代沢田かず義(※かずは金偏に和 かずよし)は旧蹟を後世に伝えようと、大正時代、私財を投じて石碑を建てた。
吾嬬(あづま)はやの碑(碓氷峠)
坂田公時の碑(金時山下)
笛塚懐古の碑(芦之湯笛塚山)
強羅開園の碑(強羅公園前)
信の行者の碑(早雲山中)
池尻茶亭の碑(七曲山下池尻)
小涌谷桜花の碑(小涌谷四面塔)
仙石原関所跡の碑(仙石原)
等である。碑は高さ二メートル以上の大きな石材で由緒が詳述されている。建設場所約一坪はそれぞれ土地を沢田氏個人が買取って建立したという。
大正十二年(一九二三)発行の「箱根底倉高山園内外の遺跡につきて」という小冊子には、前記の碑も含め、箱根に埋もれた各地の文化遺産や優れた自然景観の顕彰と保全について高山園主誌す、として詳しく解説されている。高山園まで作って箱根の良さを観光客に紹介した園主かず(※金偏に和)義の情熱が偲ばれる。
碑の一例として箱根で最初の大規模な面の開発地である強羅開園の碑を次にあげる。
函嶺七湯の名人口に膾炙せること久し今や其数増して十数湯となり強羅温泉亦実に其一たり夫れ函嶺
の勝は天下に冠たり強羅の勝は函嶺に甲たり日光を観ざる者は結構を言ふ勿れとは在昔の俚諺なるが
強羅に遊ばずんば行楽を云ふべからずとは当に今後の通語たらん而して草茅荊棘狐兎出没の強羅が面
目一新都人士女の如是行楽の地と変ぜし所以のものは小田原電気会社が巨資を投じて温泉水道遊園を
完成し又穿山架谷遠く湯本より電車を通じ以て登山に便する等天然の勝景を利用して人工の設備を加
へたる拮据経営の功に帰すべきは勿論なりと雖も而も亦先見着鞭の士の別の存するなくんばあらず余
之を此地の旧家小林政吉氏に聞く一行者あり甞此地に霊場を開かんとして果さず終に棄身成就を誓い
自ら食せずして入寂せりと嗚呼其行や或は称すべからずと雖も其志や大に多とすべきものあり又東京
の酒賈山脇善助氏亦夙にその志あり自ら私財を損てゝ車道を造り温泉を引いて澡堂淋池遊園を設くる
等頗る苦心努力を重ねしが惜ひかな竣功せずして廃せりと然れどもその後此地の経営が小田原電気鉄
道会社に移るに及び終に完成して今日の美観を呈するに至りたれば氏の志や決して空しからずと謂ふ
べし強羅の字雅馴ならず今改め抵つるに行楽の字を以てする亦佳ならずや余当山名跡の保存を志し曩
に高山園を設けて御大典記念とし又碑を碓氷嶺公時山笈平笛塚等の遺跡に建てたれば今玆強羅遊園開
拓の功を頌するに当り併せて前記三氏の労を表すと云爾(題額の颷輪縮地行楽随時は電車通じて登山
の路自ら近くなりて行楽自由になれる意である)
今日の強羅の繁栄の陰に、当初開発を試みた幾多の先人の苦労が秘められていることがわかる。
【旧蹟に石碑を建立】
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