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箱根のオンライン百科事典「箱ペディア」

【神霊の山と御留山】

 箱根の主峯は神山と呼ばれている。古来神山は山岳宗教の霊山として崇敬され、人々はみだりに近づかず、山林には斧鉞が入れられなかった。  奈良時代、万巻上人は箱根権現を創建した。その後箱根権現は、源頼朝の ...

【塩木の伐採】

 鎌倉時代の阿仏尼の「十六夜日記」の湯坂路下りの一節に「からうじて越えはてたれど、またふもとに早川といふ川あり まことにいと早し 木の多く流るるをいかにと問へば あまのもしほ木を浦へ出ださんとて流すな ...

【管理された草原】

 地方、住民の生活のために草原として管理維持されてきた広大な地域があった。  江戸時代の絵図(仙石原長安寺蔵)を見ると仙石原は外輪山の稜線付近までカヤ原になっている。  芦ノ湖の西岸山伏峠から箱根峠、 ...

【幹線道路の開削】

 旧東海道は箱根を越えて通過するための街道であったが、江戸時代後半より、箱根の七湯が庶民の湯治場となり、七湯めぐりの温泉道が箱根の各地を結んでいた。しかしこの道はせいぜい徒歩、馬、駕籠が通れる程度の道 ...

【街道の並木を伐る】

 この新道の開削費の補助金にあてるため、神奈川県は畑宿付近の杉並木を払下げ財源作りをした。  箱根八里の象徴でもあった松・杉の並木を伐るという県の見識を欠いた行政のために、湯本・畑宿付近の並木が消えて ...

【点、線の破壊、面の保護】

 明治時代、国道一号線と、宮之下から仙石原を経て御殿場に通じる二号国道(現国道一三八号線、明治四十五年・一九一二・開通)と二つの幹線道路が開通したが、いずれも自然破壊は少なく線に止まった。また開発も部 ...

【景勝地の開拓と保護(大正時代)】

 大正期に入ると、観光客の来遊と共に、早くも盗み採りから草木を譲ることの必要性を感じた動きが見られる。 ...

【箱根保勝会の活動】

 大正三年(一九一四)、菊地郡長が発起人となり箱根保勝会が作られた。  会長は足利下郡長、各町村長は支部長となって、名所旧蹟の保護や鉱泉の保護を目的として発足した。官主導の会で、当時の行政の権力や予算 ...

【旧蹟に石碑を建立】

 底倉蔦屋の先々代沢田かず義(※かずは金偏に和 かずよし)は旧蹟を後世に伝えようと、大正時代、私財を投じて石碑を建てた。   吾嬬(あづま)はやの碑(碓氷峠)   坂田公時の碑(金時山下)   笛塚懐 ...

【バーニーの碑】

 日本を、そして箱根を愛し、元箱根に移り住んでいたイギリス人貿易商、シリル・モンタギュー・バーニーが、美しい日本の国土と優れた国民性を讃えて建てた石碑が元箱根の旧街道杉並木にある。  碑文は次のとおり ...