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箱根のオンライン百科事典「箱ペディア」

【日中戦争前後】

 満州事変以降軍部の政策が台頭し国内の産業も徐々ではあったが、軍需景気の兆しが見え始め、京浜地区の軍需工場関係者の来遊客が多くなってきた。  昭和十二年箱根温泉旅館組合総会に提出された前年度の事業報告 ...

【深まる戦時色】

 東京・横浜の市民たちは、紀元二千六百年の国家的祝典をよそに、これらの行事への参加よりも各地方に点在する聖地巡歴、戦勝を祈願するための神社仏閣参拝を盛んに行った。このような観光旅行に対し軍はふたたび、 ...

【戦争と旅館組合】

 組合の事業も、「時局奉公」にそって計画され、組合執行部は、戦地に赴く組合員の対策と残り少なくなった組合員のまとめにも懸命であった。このころ組合事業も戦局の熾烈に対応する国策型事業に変わっていった。 ...

【統制経済下の旅館経営―旅館の女将さんたちの証言―】

 満州事変から日中戦争へと、中国大陸に戦火が拡大し、やがて太平洋戦争へ広がり、ついに第二次世界大戦と戦禍は拡大していった。  なかでも、太平洋戦争となった昭和十六年から二十年八月の終戦に至るまでの過程 ...

【強羅早雲閣 関戸フサ子さん】

 私共の旅館は、あまり大きな旅館ではありませんでしたが、主人が兵隊にとられ、女、子供が残されました。それでも戦争が勝利に終わるよう一生懸命働きました。  一番苦労しましたのが食糧です。次に燃料の不足も ...

【宮之下奈良屋 安藤兼子さん】

 戦時中の箱根温泉は、兵隊さんの療養所とか、集団学童疎開の宿舎などに旅館をあげてお国のため御奉公いたしました。  戦争が激しくなって、食糧が全部配給制度になりまして、調味料などは二か月に一ぺんぐらいあ ...

【強羅初音 大藤アサさん、大藤キヌ子さん】

 戦争が激しくなった昭和十四年から十五年にかけて、箱根の温泉旅館はだんだんさびれてきましたね。  旅館自体も、人手がなくなるしお掃除するのが精いっぱいでしたよ。旅館の玄関はどこでも広いでしょう。少し風 ...

【学童集団疎開の実施】

 大都市の学童の疎開が問題になったのは、戦局がますます不利となりつつあった昭和十八年(一九四三)である。国土防衛態勢の徹底強化の方針に基づき、政府はすでにその対策を企て、同年十二月十日には、「疎開ニ伴 ...

【学童たちは箱根へ】

 箱根は主として横浜市からの第一次学童疎開を受け入れることになった。横浜市は学童疎開の方針を次のように定めた。  集団疎開四割  縁故疎開六割  疎開の対象学童数六万七六六三人に対し、市は父兄と協議し ...

【学童集団疎開の受け入れ】

 旅館組合の執行部は時局の緊迫下に、県下学童の疎開受入に重大な覚悟と決意をもって、昭和十九年(一九四四)七月二十一日臨時総会を招集した。  当日の総会において石村喜作理事長は、学童受け入れと組合員の協 ...