箱根は主として横浜市からの第一次学童疎開を受け入れることになった。横浜市は学童疎開の方針を次のように定めた。
集団疎開四割
縁故疎開六割
疎開の対象学童数六万七六六三人に対し、市は父兄と協議してその内集団希望二万五三五三人と定め、全体の三割七分、縁故疎開三万四八九六人と定めた。縁故疎開の比率は五割二分となった。残留となる七四一四人(一割一分)を含め綿密な学童疎開計画が練られていた。低学年一、二年生の縁故疎開一万四二〇人を勧奨し、当初の計画どおり縁故疎開六割・集団疎開四割の比率をほぼ達成した。
神奈川県はさっそく受入側との協議に入った。七月二十日足柄下郡地方事務所に市町村を招集し、神奈川県・横浜市と受入側市町村の合同会議が開催された。横浜市からは、森視学と教育施設係の葛野重雄係長が出席した。市町村では、小田原市を初め湯本町、温泉村、宮城野村、仙石原村、箱根町外二ケ村(元箱根村、芦之湯村)と、足柄下郡・足柄上郡・中郡及び津久井郡の各町村長と学務係が出席する大会議となった。箱根の関係町村はこの会議の前から、県学務課及び横浜市からの連絡があって、町村長と旅館組合の間に数度の事前連絡会議が行われていた。この地方事務所での会議は、戦局の状況から時間的には限界であった。県及び横浜市の担当者は、当初の懇請姿勢から、哀願に変わり受入側の愛国心を説き、時局の切迫と人道愛を訴えて受入れ受諾を強く要望した。当時の会議に出席した者の感想として葛野重雄氏は後日『横浜市教育史』に次のように語っている。
大口受入側である箱根の態度が、他へ影響するところが大きいことから、
期待と不安の混り合った気持で、その出方をまった。仙石原村の村長であり、
箱根温泉旅館組合長の仙郷楼主人石村喜作氏が、真先に賛意を表され、七千人
余の学童を箱根全山に引受けて下さった。この時の感激は今も忘れることが
できない。