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箱根のオンライン百科事典「箱ペディア」

【東海道箱根八里】

 慶長八年(一六〇三)江戸に幕府を開いた徳川家康は、東海道の整備に着手、同年八月沿道に一里塚を設置した。後に箱根八里と呼ばれるようになった箱根道にも風祭、湯本茶屋、畑宿、箱根に塚が設けられていった。更 ...

【箱根七湯の成立】

 慶長から寛永にかけて箱根地方の東海道沿いが整備されると並行して、箱根地方の早川沿いの村々も湯治場としての姿を整えていく。戦国動乱の傷あとからようやく立ち直った湯治場、温泉が発見され新しい湯治場として ...

【将軍家の献上湯】

箱根七湯の温泉の効験が人々の間に流布していく契機のひとつは、将軍家への献上湯であったと思われる。  温泉を樽に詰め遠路運搬し、入浴するといういわゆる汲湯の風習は、すでに戦国時代には行われていた。古河公 ...

【大名湯治】

 総勢一〇〇名を越える行列を従え、温泉場に乗り込む大名湯治の華かさは、江戸初期熱海温泉などに見られる日常風景であった。将軍家をはじめ諸大名が江戸から船で乗り込む熱海湯治と違って、けわしい山坂を越えての ...

【庶民湯治の実態】

 このような大名湯治に比べて、庶民の湯治はどのようであっただろう。江戸後期遊楽化する七湯湯治とはちがい、江戸前期の湯治は病気治療を目的とした素朴な入湯滞在であった。この時代の湯治日数は一廻り(七日間) ...

【一夜湯治をめぐる争論】

 化政期の江戸庶民の生活動向をうかがう興味深い随筆に武陽隠士の「世事見聞録」があり、その一節には次のような記述がある。     今軽き裏店のもの、その日稼ぎのものどもの体を見るに、親は辛き渡世を送るに ...

【湯宿の営業協定】

 一夜湯治に見られるような東海道の宿場と温泉場の客引きをめぐっての競争対立は、江戸末期になると箱根七湯の湯宿同志の競争対立に及んでいった。次に紹介する史料は、本書編纂の調査中宮之下奈良屋ではじめて発見 ...

【七湯巡りの成立】

 箱根七湯の温泉湯治が大衆化、遊楽化していくなかで、いまひとつ新しい型の温泉湯治の姿が七湯の湯治場に見られるようになった。いわゆる七湯廻りである。  そのひとつの姿を浮世絵師安藤広重一行の箱根来遊に見 ...

【七湯の浮世絵】

 箱根七湯を浮世絵で始めて紹介したのは、鳥居清長の「箱根七湯名所」(天明元年(一七八一)・永寿堂)であった。清長は、このシリーズで七湯の各湯治場に江戸美人を配し、情感溢れる七湯浮世絵を描き出している。 ...

【広重「七湯方角略図」のこと】

 先にも述べたように広重は、嘉永五年(一八五二)五・六月箱根に来遊し、湯本福住に宿泊、箱根七湯を巡って江戸に帰った。広重はこの旅の先々で彩管を振い、旅絵日記として残した(武相名所旅絵日記)が、広重は更 ...