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【東海道箱根八里】

 慶長八年(一六〇三)江戸に幕府を開いた徳川家康は、東海道の整備に着手、同年八月沿道に一里塚を設置した。後に箱根八里と呼ばれるようになった箱根道にも風祭、湯本茶屋、畑宿、箱根に塚が設けられていった。更に元和四年(一六一八)には、東海道小田原宿と三島宿とのちょうど中間地点に箱根宿が、小田原・三島の町人五〇名ずつを移住させ新設された(風土記稿)

 現在も芦ノ湖岸に残る杉並木が街道に植えられていったのもこのころだという。街道に並木を植えるという施策はすでに戦国時代から上杉氏などの大名によって行われていたが、夏は避暑、冬は防雪の役割を果たす並木が全国的規模で植えられていくのは、徳川時代になってからである。なお、箱根道の場合、畑宿までは杉並木、箱根の芦ノ湖は杉並木であったようである。
 同五年には芦ノ湖畔の現在地に箱根関所も設置された(箱根御関所日記書抜)。しかし江戸幕府が諸大名の統制のため人質政策を実施、それら人質としてとられた大名の妻子が国元に逃げ帰らないため監視する役割を持った、いわゆる「女改め」関所が箱根に設置されたのは、最近の研究では慶長初年代という説が有力である(渡辺和敏・江戸幕府の関所制度の確立と機能―特に箱根関所を中心として―・日本歴史二九五号)。

 寛永年代に入ると、箱根道の沿道では村切りが行われた。湯本村から湯本茶屋が独立し、須雲川が新設され、湯本・湯本茶屋・須雲川・畑宿と街道の村々が生まれ、これにより村ごとに旅人・人足・伝馬が休息する立場が設けられ、また箱根道の道路普請、夜間通行の際の松明人足などの人夫役が確保され、街道として機能が確保されていった。

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