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【箱根七湯の成立】

 慶長から寛永にかけて箱根地方の東海道沿いが整備されると並行して、箱根地方の早川沿いの村々も湯治場としての姿を整えていく。戦国動乱の傷あとからようやく立ち直った湯治場、温泉が発見され新しい湯治場として名乗り出たものなどにより、後に箱根七湯と呼ばれるようになった箱根の湯治場が成立していくのである。
 湯本・底倉・堂ヶ島・木賀・芦之湯などはすでに江戸時代以前から湯治場として知られているが、慶長十年(一六〇五)塔之沢阿弥陀寺の木食僧弾誓上人によって、早川渓流から温泉が発見され(阿弥陀寺念光覚書・阿弥陀寺文書)新しい塔之沢湯治場の誕生となった。同所からは、その後つぎつぎと温泉が発見され、箱根でも有数の湯坪をもつ湯治場となっていった。

 これらの湯治場に江戸の人々が湯治にやって来るようになったのはいつごろからであろうか。小田原城主稲葉氏の「永代日記」から江戸初期箱根温泉湯治の様子をうかがってみよう。

  承応二年(一六五三)五月十一日
   湯本で湯治中の者が相果てた場合の荷物の処置について達しがあった。

  承応三年(一六五四)四月十五日
   底倉湯治中の安藤右京進の家来天野十右衛門が刺殺事件を起こす。

  明暦元年(一六五五)九月十一日
   塔之沢へ入湯した江戸町人帰路の途中相果てる。

  延宝五年(一六七七)五月七日
   隠岐十郎兵衛妻とともに宮ノ下・塔之沢湯治を願い出許可される。

  天和元年(一六八一)六月一四日
   江戸から湯治にやって来た片岡源兵衛という武士、芦之湯・底倉で湯治中
   江戸町人米屋六兵衛の不愉快な行為に腹を立て、湯宿の主人に注意する。

断片的ながらこのような日記の記事からも、箱根八里へ江戸の人々がかなり湯治に来ている姿が想像されよう。

 稲葉氏から大久保氏へと藩政が変わり、その時に引き渡された「貞享三年(一六八六)御引渡目録」を見ると、「御領分出温泉之事」とあり、箱根七湯には、次のように湯坪があった。

  相州湯本     湯坪  四ヶ所
  相州塔之沢    〃   十二ヶ所
  相州底倉     〃   十二ヶ所
  相州宮之下    〃   十一ヶ所
  相州堂ヶ島    〃   二ヶ所
  相州木賀     〃   四ヶ所
  相州芦之湯    〃   二ヶ所

 この史料により江戸前期貞享三年ごろには、すでに箱根温泉は七湯として成立していたことが推察される。

 箱根七湯への湯治客は江戸中期に至ると江戸から関東一円と広がっていった。正徳二年(一七一二)塔之沢へ入湯した江戸の医師藤本由己は、浴室での様子を「東話西談南北の人」(塔之沢紀行)と記しているが、事実、享保四年(一七一九)木賀温泉入湯の湯治客の国元を調べると、江戸・津久井・三浦・上総・下総・御厨・郡内・三島などであり、湯治客が南関東から伊豆・甲州にかけてやって来ていることがわかる(湯入衆国元所并湯代請取之元帳・勝俣家文書)。

 箱根にはこの七湯の湯治場以外にも姥子や仙石原にも湯治場があった。姥子湯は、芦ノ湖畔湖尻近くにある湯治場で往還の山路も嶮しく、また箱根・仙石原両関所の御要害山に囲まれたところにあったため小屋掛け程度しか許されず、農閑期に地元や御厨(御殿場)の人々が利用するくらいであった。仙石原にも御獄山(大涌谷)より掘樋をもって引湯した湯治場が文化五・六年(一八〇八・九)まであったが、湯口が破損し、再建できぬままに江戸期は終わった(風土記稿)。

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