五代およそ一〇〇年南関東一円に勢力をはった後北条氏にも、落日の時が迫りつつあった。天正十八年(一五九〇)秀吉の小田原攻めが始まったのである。同年三月一日秀吉はおよそ三万五〇〇〇の直轄軍を率いて京都を出発した。後北条氏は秀吉との天下わけ目の決戦に備え、山中・鷹之巣・湯坂・宮城野・塔之沢の箱根山の諸城を整備し、秀吉軍を迎え討つべく準備を進めていた。が、質量ともに勝る秀吉軍は、たちまち箱根の諸城を攻略、四月五日秀吉は、湯本早雲寺に入り、そこに本陣を置いた。
早雲寺着陣と同時に築城を開始した石垣山城も六月中旬に完成し、秀吉は同月二十六日同城に移り、本格的な小田原城攻撃を開始した。この間、玉縄・江戸・川越・岩槻・鉢形・八王子など北条氏の主な諸城はつぎつぎと落ち、小田原城は孤立無援となった。七月五日本城主氏直はついに城を出て秀吉の軍門に降った。同月十一日、氏政・氏照は場内の医師田村安栖宅で切腹自害した。同月十三日秀吉は小田原城に入り、後北条氏は遂に滅亡した。
秀吉軍が入った箱根山は、大混乱に陥った。底倉の村人は、秀吉軍に追い散らされた(安藤隼人置文・相州文書)。秀吉軍は底倉を占拠すると「禁制」を出し、放火・乱暴狼藉を禁じた。更に同年五月十四日、片桐直倫の名において掟書を底倉村へ与えた(相州文書)。その一か条には底倉湯治に関して次のように述べている。
一 当郷山入り、湯入りの宿とり、無理に押入り、狼藉の輩ある間敷く候、
亭主に理同心の上ニ候ハゝ、くるしからず候。
底倉湯治において占領軍である秀吉軍が、乱暴狼藉のないことを保証したものである。
秀吉軍と底倉湯の結びつきについては、秀吉自身も小田原攻の最中、陣中の労を癒すため入湯したと伝え、その石風呂が現存している。
小田原落城後、秀吉は関東八か国を徳川家康に与え、家康は小田原城を同年八月一日、三河以来の直臣大久保忠世に与えた。同二十年(一五九二)三月、大久保氏の年寄後藤弥次兵衛から次のような定書が底倉村に出された。
定
一 底倉湯治の衆、一日ニ湯銭人前より壱銭充て取るべきの事
一 鹿かき志へ取きるへからす候の事
右、地下人に対し、狼藉これあるニ付ては、主人ニ申し断り、小田原へ
申越すべく候也。仍って件の如し。
辰(天正廿年) 後藤弥兵衛(次脱カ)
三月廿八日 森(花押)
戦火が治まった箱根山で、村々の再建が進み、底倉村でも湯宿商売が行われるようになったことが推察される。
【秀吉の小田原攻めと箱根温泉】
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