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【大名湯治】

 総勢一〇〇名を越える行列を従え、温泉場に乗り込む大名湯治の華かさは、江戸初期熱海温泉などに見られる日常風景であった。将軍家をはじめ諸大名が江戸から船で乗り込む熱海湯治と違って、けわしい山坂を越えての七湯湯治はなかなか大変だったのであろう。熱海に比べて箱根七湯へやってきた大名の記録は少なさそうである。と筆者はかつて述べたことがある(箱根七湯)。
 しかし、今回組合史編纂のため宮之下奈良屋の古文書が初めて公開され、調査することができ、それにより、前途の考察は全面的に改めなければならなくなった。宮之下奈良屋には、二八点に及ぶ大名とその家族、大奥女中などの「御入浴控帳」があり、それによると、寛政以降かなりの諸大名が奈良屋に来湯していることがわかった。いまそれを列記すると次のようになる。 

    寛政六年 (一七九四)松平丹波守祖母
     〃九年 (一七九七)阿部豊後守
     〃十二年(一八〇〇)大久保相模守姫
    享和元年 (一八〇一)片桐主膳母
     〃   (一八〇一)御本丸瀧川、長門少将
    文化二年 (一八〇五)丸鬼和泉守室
     〃三年 (一八〇六)松平淡路守母
     〃十二年(一八一五)松平阿波守室
     〃十四年(一八一七)植村駿河守
    文政四年 (一八二一)朽木土佐守
     〃七年 (一八二四)大久保相模守姫
     〃十一年(一八二八)土屋相模守
    天保四年 (一八三三)松平阿波守
     〃 年 (一八三三)雲州月奠院
     〃七年 (一八三六)紀州徳川家青山西條少将
     〃十四年(一八四三)北条遠江守
    弘化四年 (一八四七)薩摩宰相斉興
    嘉永二年 (一八四九)因州
     〃四年 (一八五一)九鬼長門守室
    文久三年 (一八六三)浄心院
    年不詳        細川肥後守

 これを見ても江戸後期となれば、かなりの大名や家族が箱根七湯へ温泉湯治に来ていたことがわかる。宮之下の奈良屋だけでこれだけあるのだから、箱根の他の温泉地、例えば大名湯治の若干の記録がある塔之沢などの湯宿の史料が残されていれば、その数は更に多くを数えることができるであろう。

 これら宿帳を通覧して気づくことは、いくつかあるが、その中でも注目されるのは、「肥後様御泊御下宿控帳」の内容である。年不詳ながら幕末期と思われるこの控帳は、九州熊本藩主細川肥後守が奈良屋を本陣として宿泊した時の宿割帳であるが、その宿割の人数を見ると、次のとおりである。

    御本陣奈良屋(宮之下) 兵治 二〇〇名  大和屋太郎治(堂ヶ島)二〇名
    脇御本陣藤屋勘右衛門(宮之下)一〇〇名  江戸屋与惣治(堂ヶ島)一〇名
    葛屋平左衛門(底倉)     七〇名   丸屋 孫兵衛(堂ヶ島)二〇名
    萬屋伊右衛門(底倉)     二〇名   吉田屋忠兵衛(芦之湯)二〇名
    仙石屋 丈助(木賀)     二〇名

 総人数五〇〇名に及ぶ大集団の宿泊である。湯宿も宮之下だけではたりず、底倉、木賀、堂ヶ島と周辺の温泉地に及び、更にかなり離れた芦之湯に至っている。これだけの人数が通常の湯治のように一廻り(七日間)や二廻り(一四日間)の湯治を実施したら大変である。恐らく参勤交代の途中で一夜泊りの宿泊であろう。湯宿名に芦之湯の湯宿があるところから見て、江戸に向かう途中の一泊であったと思われる。

 東海道を旅する人々が、五十三次の宿駅に宿泊せず、温泉場などに一泊するいわゆる一夜湯治は、江戸後期になるとおおいに流行し、そのため後でも触れるように、小田原宿と湯本温泉場との争論にも発展していく。この宿帳を見ると、このような一夜湯治が庶民の旅行だけでなく、参勤交代の大名にも及んでいることがわかる。奈良屋の宿帳には、細川肥後守の場合だけでなく、「御小休控」とか「御休」とかの書名に見られるように長期滞在の入湯とは思われない二、三の大名の宿帳がある。恐らくこれらの大名も一夜湯治に奈良屋を本陣として宿泊した大名であろう。
 では長期滞在の一般の大名湯治は箱根温泉でどのように行われたのであろうか。まず湯治には幕府の許可が必要であった。寛文十二年(一六七二)宮之下に湯治に来湯した小田原城主稲葉正則の場合、同年九月晦日、「内々に湯治の御暇願の趣、上聴に達し、御座において御懇の上意の上、小田原えの御暇下し置かれ」(稲葉氏家譜)たのであり、陸奥磐城平の城主内藤帯刀も六月の参勤交代前に塔之沢湯治を願出、「相越すべく旨、仰せ出された」と老中松平信綱より上意が達せられている(内藤文書・明大刑事博物館)。
 残念ながら稲葉正則の宮之下湯治の人数は不明であるが、明暦二年(一六五六)塔之沢へ入湯した酒井日向守御内室の御供廻りの人数は一一九人(永代日記)であり、それを越える人数が正則に従って宮之下に入湯したと思われる。一〇〇人を越える御供廻りの役柄は、時代は下るが、慶応元年(一八六五)大久保忠礼の湯本湯治を見ると、

   御押、御供目付、御従、御代官、御手代、御手廻り頭、地方御組、御茶頭才領、
   御用途方才領、御陸尺頭、御下供、御普請方、御賄出し方、
   (殿様御入湯御宿割帳・福住文書)

 であり、湯治滞在中はすべて自前で処理できる御供を連れての入湯であることがわかる。また湯治の多くが病気治療を目的とする故、医師四、五名を同道させている場合もあった(御本丸瀧川様・長門少将様入湯控・奈良屋文書)。

 大名が入湯する湯治場も大変である。まず下検分が行われる。正則の場合も次のような達しが湯治場に出された。

   今度御湯治の御暇を下され御帰城になり、来月中旬宮之下へ御湯治遊されることになった。
  そこで十月十日より二十五日迄制札を宮之下の入口に掲げ、在所の者にも其旨申聞かせておく
  よう仰せ出されがあった。宮之下の御宿弐間(軒)はすべて差替え致し、掃除をきれいにする
  ように、もし悪所あれば繕い、御湯殿・御雲隠・御湯屋もきれいにしておくよう申し付ける。
  御宿の惣廻りは竹垣を廻せ、御宿の儀は、名主平左衛門がよいと思うが、外にもよい家があるか
  吟味せよ。(「永代日記」寛文十二年九月二十四日の条)

 大名の入湯中の湯治場は、一般湯治客は入湯が禁止された。先の日向守内室の場合も関係者以外の塔之沢入湯が禁じられ、入湯申し込みはすべて断わるよう通達が出された(永代日記)。領内に湯治場がある小田原藩も大変であった。大名の入湯中は見廻りを出し、万一に備えなければならなかった。

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