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【庶民湯治の実態】

 このような大名湯治に比べて、庶民の湯治はどのようであっただろう。江戸後期遊楽化する七湯湯治とはちがい、江戸前期の湯治は病気治療を目的とした素朴な入湯滞在であった。この時代の湯治日数は一廻り(七日間)を単位とし、三廻り(二一日間)が湯治の日数とされた。
 江戸町人が三廻り湯治にでかけるには、箱根まで往復の道程を加えれば、二五日、およそ一か月はかかる。したがってこのような湯治ができる階層といえば上層町人、村では名主クラスの有力百姓にかぎられていたと思われる。七湯湯治が一般化するのは、やはり江戸後期、一夜湯治や七湯廻りの湯治形態が七湯に定着していく中からであろう。

 湯宿の設備や宿泊はどうであっただろうか。どの湯宿でも共通する設備に、湯殿に滝湯と呼ばれるものがあった。

  塔之沢  滝湯
  堂ヶ島  大滝・小滝の湯
  宮之下  滝ゆにして二、三ヶ所貯ふ
  底倉   男滝・女滝湯 
  木賀   大滝湯
                      (七湯の枝折)

 「滝湯とハ樋より筧にうつし浴室に仕かけ滝のことくおとしかけ病をうたすなり」(同)というように温泉を上から滝のように落とし、浴客は患部へその落ちる湯を打たせるので「打たせ湯」とも呼ばれていた。

 入湯方法にもいくつかあった。一般には男女が浴室をともにする混浴であったが、幕湯・留湯という方法もあった。幕湯というのは、「己が浴すべき時には他の人を入れず一つぼ借りきりにする」(七湯の枝折)入浴法で、湯宿では浴室の入口に幕をかけて、他の湯入りを止めた。この方法が流行すると、自由に入湯できないので、「幕湯にて人々難儀」(木賀の山踏)ということにもなった。また留湯といって湯治滞在中湯坪を借り切ってしまう方法もあったが、これは大名・豪商など特殊な人々に限った入浴方法であった。

 宿泊料については、史料が少ないためにその時代ごとの料金はわからないが、江戸後期文化年間には、一廻り(七日間)夜食と朝食を含めて一分と二〇〇文、他に寝着とふとん代が必要であり、

  木綿夜着壱廻り  百五十文
  同ふとん壱廻り  百文

であった(七湯の枝折)。木綿の夜具を嫌い、絹の夜具を欲する場合は、湯宿の主人が相対で決めたらしい。

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