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【一夜湯治をめぐる争論】

 化政期の江戸庶民の生活動向をうかがう興味深い随筆に武陽隠士の「世事見聞録」があり、その一節には次のような記述がある。

    今軽き裏店のもの、その日稼ぎのものどもの体を見るに、親は辛き渡世を送るに、娘は化粧し、
   能き衣類を着て、遊芸または男狂いをなし、また夫は未明より草履・草鞋にて棒手振などの家業
   に出るに、妻は夫の留守を幸に近所に合壁の女房同志寄集り、己が夫を不甲斐性ものに申なし、
   互い身の蕩薬なる事を咄し合、又紋かるた、めくり抔といふ小博奕をいたし、或は若き男を
   相手に酒を給へ、或は芝居見物其外遊山物参り等に同道いたし、雑司が谷・堀の内・目黒・
   亀井戸・王子・深川・梅若抔へ参り、又此道筋近来料理屋の類沢山に出来る故、右等の所へ
   立入又は二階抔へ上り金銭を費して緩々に休息しー

 なにやら現代の世相とも相通じるような内容である。では、裏店や日稼ぎの男どもが働き蜂のように飛び廻り、生活のあかにまみれていたのかというと、そうでもなさそうである。男たちには年に一度、あるいは数年に一度江戸を出て旅を楽しむチャンスがあった。
 この時代となると、伊勢講・大山講・富士講など各種講集団による旅行が盛んになってくる。江戸の魚岸の棒振り、関東一円の百姓たちの信仰を集めた相模大山の雨降山大山寺は、例年六月二十七日の初山から七月十七日の盆山までの期間は、これら講中の集団登山でにぎわった。

 お伊勢参りは江戸時代を通じて盛んであった。伊勢参宮は元禄・享保ごろが頂点で、その後は停滞ぎみであったといわれているが、それでも多い年は四〇万、少ない年でも二〇万から二四、五万人あったといわれている(新城常三・庶民の旅の歴史)。
 富士講による富士登山も江戸の庶民にとっては比較的近い山であったため盛んに行われた。大宮口、村山口、須走口、吉田口から登山する人々は万を超えることもあった。
 これらの講集団の旅は、本来は信仰を中心としたものであったが、このころの旅は「神仏に参るは傍らにて、遊学をむねとす」(嬉遊笑覧)になりつつあった。お伊勢参りの道中が途中での宿屋女郎衆の品定めの旅であったり、伊勢参宮についで京・大和の名所めぐりが欠かせぬコースにもなっていた。

 箱根八里の往還する講集団の宿泊もこのような時代の流れの中で大きく変化しつつあった。小田原宿と箱根温泉場との一夜湯治をめぐる争論は、このような社会的背景のなかで起こったものである。この争論の詳しい課程については、すでに紹介済みなので(箱根七湯)、その大要を述べる。

 文化二年(一八〇五)七月、小田原藩の旅籠屋たちは、湯本温泉場が一夜湯治と称して東海道を往還する旅人を盛んに誘致するので、小田原宿の宿泊者が減少し、宿場が困窮している。湯本の行為は道中奉行の「間々村々旅人休泊取締り」の達に違反するから湯本温泉場に申し入れ、中止させよう、もし応じなかったら、幕府に訴えようと、箱根宿の問屋年寄と話し合う。この動きを知った湯本村では、小田原宿の談合申し入れに応ぜず、名主九蔵が江戸に向かい、道中奉行にいち早く湯本村の立場を弁明した。湯本村の村役人が江戸へ向かったことを知った小田原宿でも宿役人が急ぎ江戸へ赴き、道中奉行へ小田原宿の窮状を訴えた。湯本村役人と小田原宿役人は奉行所で対決するが結論は得られず、道中奉行所では地元に帰り、地方役所の裁きを受けるよう申し渡される。しかし地元での裁定はなかなか出ず、湯本村では再び道中奉行へ湯本温泉場一夜湯治存続の請願を行う。同年十二月、湯本村の請願が通り、道中奉行石川左近より一夜湯治苦しからずの許可を得て帰村、小田原宿へその旨を伝える。小田原宿ではこの裁定は一方的すぎると道中奉行に訴えるが取り上げられず、湯本村の言い分がとおり、一夜湯治は以後公的に認められるようになった(文化二乙丑年一夜湯治一件書類合巻帳・湯本福住文書)。

 以上が争論の大要である。この争論の過程をふり返えると、湯本温泉場の積極的な反論が目立つ。それに反して小田原宿の動きは怠慢である。幕府公認の宿駅としての地位に安住し、宿場の衰微を助成金などで切り抜けてきた体質がしみついているように思われる。それに対して湯本温泉場は、捨身で請願を行っている。恐らく何らかの政治資金が奉行所へも動いたと思われる。

 ともあれ、この一夜湯治は、湯本のみならず箱根七湯の湯治場に定着していった新しい宿泊形態である。文化八年(一八一一)に著された「七湯の枝折」には、湯本の部には「伊勢講のむれ五十・六十つどい来りてきそひ宿り、或は富士大山の行者二十・三十うちつらなりてあらそひ泊る」とあり、また芦之湯の部にも「或は富士大山詣のついての湯めくり抔とて、わけて六七月の比はいつれの湯宿にも宿りて、其繁昌いはん方なし」と、講集団の一夜湯治でにぎわう箱根七湯の様子を伝えている。

 そしてこの一夜湯治は先述のように東海道を参勤交代で往還する諸大名にも及んでいったのである。

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