動乱の時代の伝承は底倉温泉についても残されている。南北朝の対立が終焉に向かい、室町幕府が武家政権の実質を発揮し始めたころ、応永十年(一四〇三)南朝方の遺子新田義睦が箱根底倉に潜伏中に討ちとられるという事件が起こった。義睦は、新田義貞の弟脇屋義助の孫で、南朝再興のため永徳年間(一三八一~八三)兵を挙げたが敗れ、箱根山中の底倉に住む木賀彦六左衛門を頼り、潜伏中土豪の安藤隼人介に見つかり討ちとられたという(底倉記)。
義睦が底倉に潜伏したのは、矢疵を負い歩行困難になったため温泉で治療しようとしたからだといわれている。このような伝承が事実ならば、中世武将の「隠れ湯」として底倉湯の存在が浮びあがってこよう。義睦を討った安藤隼人介は、底倉の領有を許され、子孫は代々その地に居住した。ちなみに底倉村の江戸時代の名主家藤屋勘右衛門はその子孫だという(『新編相模国風土記稿』以下引用は「風土記稿」とする。)
義睦が底倉で討ちとられた一三年後の応永二十三年(一四一六)関東管領上杉禅秀(氏憲)が鎌倉公方足利持氏に逆した、いわゆる禅秀の乱が起きる。戦いははじめ氏憲軍に有利であったが、やがて幕府が持氏軍を支持し、逆転し、氏憲らは鎌倉に逃げ帰り、翌二十四年一月一日鎌倉雪ノ下で自害した。この乱の際、持氏側につき活躍した御厨(御殿場市)の大森氏は、恩賞として西相模地方の領有を許され、小田原・箱根も大森氏の支配下に入った。
【隠れ湯としての底倉湯】
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