関東大震災の深い傷あとから箱根山がようやく立ち直りつつあった昭和五年(一九三〇)、再び大地震が箱根を襲った。昭和五年十一月二十六日午前四時三分、伊豆半島及び箱根を中心に起きたいわゆる豆相地震である。震源地に近い三島測候所では、地震計が測定できぬほどすごいものであったという。
この地震により箱根地方、特に震源地に近い箱根町、元箱根、芦之湯地区は大きな被害を受けた。家屋の倒壊、道路の決壊が至るところで起き、交通が杜絶した。箱根町は全戸一五〇戸の内一二〇戸が、全壊又は半壊するといった状態であった。この地震による人的被害は、死亡者一三名、病災二八名に及んだ。地震直後の元箱根、箱根地区では、芦ノ湖の水面は渇水期にもかかわらず一メートル以上水位が上がり、危険状態になったので、裾野町へ深良疎水の放水を依頼したが、疎水も被害を受けたらしく、放水は拒絶され、住民は一時恐慌状態となったが、やがて水位も低下しことなきを得た。
宮之下地区でも蛇骨川流域で温泉の湧出が一時止ったり、大涌谷の噴煙も異常状態が続き、不安が高まったが、二、三日後平常にもどった。
旧道筋の畑宿では寺院倒壊をはじめ、道路陥没などがあり、箱根全山にわたってなんらかの被害を受けたが、仙石地区だけは被害が最も軽微であったという。
この地震により芦之湯、元箱根、箱根町のホテル、旅館も大きな被害を受けた。箱根温泉旅館組合では、翌二十七日、底倉梅屋旅館において役員会を招集して復興対策を講ずる外、被災者に対する見舞金の贈呈を決議し、この見舞金の総額を三〇〇円として、被害の状況によりこれを按分した。組合議事録によると次のようである。
・ 営業再開見込なきもの
箱根ホテル 金五十円
古谷旅館 金三十円
・ 大破損したもの
(元箱根)
松坂屋旅館 金三十円
橋本屋旅館 金三十円
武蔵屋旅館 金三十円
金波楼 金十五円
(芦之湯)
紀ノ国屋 金五十円
松坂屋本店 金五十円
(強羅)
紅葉館 金十五円
分断された道路の復旧作業は、各地から軍隊の出動があって、急速に進み、国道一号線及び主要道路は、震災後二、三日で全面開通した。が、打ち続く天災の傷手から立ち直るには時間を要した。更にこの年起きた金融恐慌の嵐が箱根温泉にも吹きつけてきたからである。
昭和四年(一九二九)十月、ニューヨーク株式市場の暴落から起こった恐慌は、昭和五年(一九三〇)に入ると日本へも波及し、当時横浜口雄幸内閣によって進められていた金解禁政策により不景気の色の濃かった日本経済は、世界恐慌の荒波を受け、予想以上の苦境に陥った。
恐慌の衝撃は、造船、鉄鋼、電気など京浜地区の基幹産業を揺り動かし、暗い不景気のどん底に低迷した。大正後年から交通機関の整備とともに大衆化の道を歩み始めてきた箱根温泉も、入湯客の減少という事態のなかで、不景気からの脱出を誘客宣伝と環境整備に求め、箱根振興会を中心として精力的な活動を開始した。
【豆相地震と世界恐慌】
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