枢軸国ドイツ海軍の兵士一三〇名が箱根にやって来たのは戦局が激化しつつあった昭和十八年四月である。昭和二十二年二月、占領軍の手によって本国に送還されるまでの四年間を芦之湯で過ごした。
ドイツ海軍は、第二次世界大戦当初からUボート、高速戦艦、仮装巡洋艦によって専ら連合国軍の輸送路破壊作戦に当たっていた。インド洋で大きな戦果を挙げた仮装巡洋艦トオル号(三八六二トン、乗組員三五一名)は昭和十七年十月、修理のため横浜に入港した。当時横浜港にはドイツ海軍の輸送船二隻が繫留されていたが、同年十一月三十日、その輸送船一隻の中央部に突然大爆発が起こり、舳を並べて繫留されていたドイツ海軍の艦船三隻と日本海軍の徴用船一隻が炎上し、付近の建物も大きな被害を受けた。事故による死者、行方不明者はドイツ人六一名、中国人三六名、日本人五名の計一〇二名であったが、軍はいっさいの報道を禁止したので翌十二月一日付の新聞は「横浜港内で商船の火災」の見出しで短い県警察部当局の談話を伝えるのみであった。この大爆発の真相は、未だ謎に包まれたままである(原勝洋・横浜港ドイツ仮装巡洋艦爆破事件)。
さて、船を失い日本を離れることができなくなったドイツ海軍兵士の処置に苦慮していた海軍省軍務局の市川大佐は、当時海軍従軍画家であった松坂康に依頼、松坂屋本店を宿舎に指定したのである。統制が強化され、食糧、物資は乏しく、一般営業が困難な時であったから、建物の大半を軍に寄与することは、旅館にとっても好都合であった。また山間のこじんまりとした温泉場芦之湯は彼らを収容するには格好な場所でもあったのであろう。
戦時中は海軍省から食糧や諸物資の特別配給を受けたドイツ兵も敗戦後は、牛豚鶏を飼育し、野菜を作り、山の雑木を伐採して燃料とし、耐乏生活を村民とともにした。今、あじが池とよばれ温泉場に風情を添えている池は、当時村の防火用水池とするため、ドイツ兵たちの汗と奉仕によって掘られたものである。また宝蔵ケ岳の裾にも防空壕を掘りはじめたが、完成前に終戦となり今は跡形もない。終戦後、事故で死去したドイツ兵の墓が東光庵の北側にあり四〇年の歳月を偲ばせている。
ドイツ海軍は海軍省の斡旋によって、昭和二十年五月から箱根ホテルの別館とグリルも使用した。同年十月疎開学童引揚後、箱根ホテルは全館をドイツ海軍に寄与し、一般営業を再開したのは昭和二十二年三月三十一日であった。