温泉一キログラム中に溶けている化学成分が一グラムを越すと、たいていの人はその味を感ずることができる。今から一七〇年程前の文化年間に書かれた「箱根七湯の枝折」には温泉の泉質を口にふくんだときの味として表現している。
湯本 冷湯にして気味なし
塔之沢 辰砂湯なり温湯にして気味かろし
宮之下 温湯にして味気しほはゆし
底倉 気味至 鹼し熱湯なり
木賀 温湯にして気味鹼し又酸みあり
芦之湯 冷湯にして気味酸し
湯本温泉は入浴にはちょっと低めの三八度Cほどの単純温泉であったと思われる。単純温泉の溶存物質は一グラム/キログラム以下であるから、味気はない。
塔之沢温泉の辰砂湯というのは多分湧出口のまわりに沈殿していた水酸化鉄の赤褐色を辰砂(硫化水銀)と間違えたのであろう。入浴に適した四二度C前後の泉温であり、味覚の鋭い人がほのかに塩分の味を感じた程度、単純温泉に相当する。
宮之下温泉は蛇骨沢湧泉と同系統で、高温の弱食塩泉の影響ガ強い。入浴にはちょっと高めの温湯、食塩の味を感じるので「しほはゆし」となる。
底倉温泉は蛇骨沢湧泉群の周囲に広がっていた。沸騰点に近い弱食塩泉が大量に湧出している。したがって、熱湯で、温泉を口に含み、「うん、なるほど、塩味がするね」と塩気を感じた。弱食塩泉である。
木賀温泉は宮之下や底倉にちかく、それらと同系統の「気味鹼なる」弱食塩泉と局所的に硫化水素の酸化で生じた「酸み」ある弱酸性硫酸塩泉が混入していたと考えられる。
芦之湯は四〇度C程度、冷湯の弱酸性泉、したがって酸味のある温泉である。
その後いくつもの箱根温泉案内書が出ているが、「七湯の枝折」の泉質表現は簡潔ながら味覚によって泉質の要点を最もよくとらえている。化学分析の技術をもたないために、むしろ五感の神経をとぎすまし、物をよく見る目が育っていたのであろう。