箱根温泉 箱ぴた 箱ペディア 【廃藩置県前後の箱根】

【廃藩置県前後の箱根】

 維新改変の嵐は箱根地方を維持していた旧体制にもつぎつぎと襲いかかっていった。
 明治元年(一八六八)元箱根の箱根権現には廃仏毀釈の嵐が吹き荒れていた。同権現の別当寺金剛王院東福寺は廃寺となり、同年九月七一世別当諦昶は、還俗して箱根太郎と改名、祠掌となった。この時より同権現は箱根神社と称するようになった。東福寺の廃寺により多くの仏像、仏具類が寺より流出・売却されたり、芦ノ湖畔で壊され、焼却された。土地の古老の話によると、かつて芦ノ湖の湖底をのぞくと、その時のものと思われる仏像の玉眼や仏具の破片が湖底より光って見えたという。同寺が管理していた湖畔の賽之河原にあった石仏も同様の被害を受け、信仰の地は荒廃した。

 明治二年(一八六九)一月二十一日には、およそ二〇〇年間徳川幕府の江戸防衛、街道支配の要として、東海道の関所中でも重きをなした箱根関所が廃止となった。皮肉なことに同関所は、三年前の慶応元年(一八六七)、およそ二か年間にわたる幕府の公儀普請により、全面的な修復がされたばかりであった。(相州箱根御関所御修復出来形帳・江川文庫)。

 東海道五十三駅のひとつ箱根宿にも時代の波が押し寄せてきた。明治五年(一八七二)一月、宿駅制度の廃止により、東海道筋の本陣・脇本陣が廃止されるが、箱根宿においても本陣駒左五右衛門、石内屋弥平太らの本陣四、脇本陣二は廃止となった。このためこれらの本陣主たちは、これに代わる宿駅の存続の手段として箱根宿陸運会社を設立し開業した。同社は、従来通り東海道の陸運事務を行うと同時に、同年十月には、箱根宿を中心として信州(長野県)-甲府(山梨県)-芦ノ湖―湯河原を経て海上を三浦半島の浦賀に出る運送ルートを計画、翌六年に許可された。

 この間この地方の行政制度もいくたびか変わった。明治二年(一八六九)の版籍奉還以降小田原藩は小田原県となり、更に明治四年十一月十四日には、小田原県と韮山県が合併して足柄県となり、箱根地方の村々は同県に属するようになった。その後同九年四月には、足柄県が廃止され、伊豆国分と相模国分が分離し、箱根地方は神奈川県管下となった。

 大きく揺れ動く時代の中で、箱根七湯の湯治場はどのような状態であったのであろうか。

 明治九年(一八七六)九月福羽美静が「東京日日新聞」及び「横浜毎日新聞」によせた「函根温泉場の景況」という随筆から往時の様子をうかがってみよう(『神奈川県史』資料編一四)。
 このころ湯本・塔之沢・堂ヶ島・底倉は浴客が少なく、それに反し宮之下、木賀・芦之湯は「毎戸虚室なきに至り往々溢れて外四湯に投ずる客」がでるほどであった。これら三湯の浴客は「富商豪農の輩なり、官員ハ稀れ書生も稀れ絃歌の声も稀れ西洋人ハ頗る多し」という状況であった。宮之下の奈良屋の門前には皇后宮御行啓のため、「巡査の控処」が新設され、木賀亀屋の三層楼には木戸公が避暑中であった。芦之湯には瘡毒に効あることを知ってか病気治療の西洋人が多かった。

 なお、美静は「弊社の探報が箱根温泉の細見を送り升たからここに載せ升」として、当時の宿泊料、山駕籠料などを記している。この年代の史料として貴重なので紹介しておきたい。

   上等一泊 金三拾壱銭 同昼食 金拾二銭五厘
   中等一泊 金拾九銭  同昼食 金八銭

   下等ハ手前にて温泉料壱人一昼夜金弐銭(小児三歳より七歳までハ一銭)、
  泊なし一日入ハ一銭 飯米焚出料一日一銭、自身焚料五厘、此の他汁菜香の物
  等自製勝手次第なり 一間借切り席料ハ大概客の注意たるへし

    宮之下より諸方山駕籠雇賃料

   木賀へ   拾弐銭五厘   塔之沢へ 弐拾八銭
   湯元へ   三拾四銭    小田原へ 四拾七銭
   芦之湯へ  三拾弐銭    箱根へ  五拾 銭
   熱海へ   壱円七拾五銭  一日雇切 八拾八銭

   人足壱人ハ駕籠一挺の半減なり 余畧す

                     (横浜毎日新聞明治九年九月二日)

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