箱根地方における明治という時代の幕あけは、箱根湯本山崎で、小田原藩と幕府遊撃隊が対戦したその砲煙のなかで始まった。
慶応三年(一八六七)十月の大政奉還から同年十二月の王政復古に至る激しい時代の流れのなかで、小田原藩は朝廷につくか、幕府に殉じるか常にあいまいなことなかれ主義の態度をとりつづけた。藩主大久保忠礼は、同年十二月朝廷より上京するよう促されるが、譜代藩主として京都の地を踏むことをためらい、甲府城代赴任を理由に家老の加藤直樹を代理として上京させた。
鳥羽伏見の戦によって形成が一変し、東海道征討軍が江戸に向かって進撃を開始すると、小田原藩は左幕を捨てて朝廷に従う態度を明らかにした。東海道軍は、明治元年二月二十八日、箱根関所を占領、同所を小田原藩に預けることとし、そのまま小田原宿に着陣した。やがて本隊の大総督有栖川宮も四月十一日小田原宿へ入った。この間江戸では東海道軍の参謀西郷隆盛と旧幕府側の勝海舟とが会談の結果、江戸開城が合意され、四月四日東征軍は江戸城に入り、同月十一日開城が行われた。
しかし、同月十二日、幕府側の上総請西藩主林昌之助、幕府遊撃隊の伊庭八郎らが手兵を率いて千葉方面より真鶴に上陸、小田原城下に入り、小田原藩が幕府方につき挙兵するよう働きかけた。小田原藩ではすでに朝廷に従うことを表明していたので、態度を明らかにしなかった。
五月十五日上野彰義隊の戦いに勇を得た昌之助らは、滞在中の沼津から箱根関所を経て小田原に入り、藩論をくつがえらせ、城内に入った。しかし江戸より帰藩した藩士中垣謙斉の説得により、小田原藩は遊撃隊とは絶縁、昌之助らを城下より追い出した。
五月二十六日、箱根山方面に引き揚げる遊撃隊と、それを追撃する小田原藩兵との間での対戦が、湯本山崎でくりひろげられた。城下より立退いた遊撃隊は、同月二十四日湯本村福住九蔵宅に止宿するが、翌日同宅を引払い、三枚橋・湯本茶屋・畑宿などに分宿した、翌二十六日午後二時ごろ湯本山崎に大砲台を築いた小田原藩軍と遊撃隊との戦いが始まった。兵力の圧倒的な相違にもかかわらず、小田原藩軍は苦戦であったが、戦況を見守っていた新政府軍の援護射撃によりようやく反撃が開始された。この対戦に敗れた遊撃隊は、東海道を箱根方面に退去、仲宿堂之前、湯本茶屋はこの退去の際の遊撃隊の放火で全戸が焼失した、という。七湯道筋に退去した遊撃隊は追撃する小田原藩兵と堂ヶ島で対戦、七名が戦死した。
翌二十七日箱根関所手前まで退いた遊撃隊は、同所手前の新屋町に方火、小田原藩軍の追撃をかわして、鞍掛山から日金山を経て熱海へ下り、海上より脱出した。この戦いが終わっての戦後処理は厳しかった。藩の家老岩瀬大江進は責を負って自害したが、それに止まらず、九月二十七日藩主忠礼は不始末な処置を咎められ蟄居を命ぜられた。また藩主大久保家の領地は没収され、江川太郎左衛門の監視下に置かれることになった。
【箱根戦争】
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