江戸時代東海道箱根八里の道を何人かの西洋人が往還した。ツンベルク、ケンペル、シーボルト、そして幕末に至るとハリス、ヒュースケンなどの西洋人が箱根八里の山路を越えて、江戸へ赴いた。当然のことだが、これら外国人は、東海道を往還するだけで箱根七湯に逗留した記録はない。
西洋人の箱根七湯入湯は、明治二年(一八六九)六月二十六日神奈川港に碇泊中のイギリス軍艦オーション号船将チンキラル他五名が箱根宮ノ下へ湯治したこと、同年七月五日イギリス商人ウインステンレー外二名が同じく宮之下に湯治したこと(神奈川県史料)などが知られている。が、江戸時代箱根七湯に入湯した西洋人の姿は今まで確認できなかった。
しかしながら最近綾部友治郎によってL・ド・ボーヴォワールの「ジャポン一八六七」(有隣新書)が紹介されるに及び、幕末箱根七湯に入湯したフランス人がいたことがわかり驚いた。
綾部氏によると、ボーヴォワールは、一八四六年ブリュッセル生まれのフランスの貴族で、父は侯爵、自分自身は伯爵であった。彼は一八四八年の二月革命によって追放されたフランス王室の一族パンティエーヴル公ともに一八六六年一六か月にわたる世界一周の旅行に出、その途中、日本に立ち寄り、一八六七年(慶応三年)四月二十一日より三五日間横浜に滞在、その間武相を遊覧、同年五月十七日箱根宮之下に入湯したのである。
ボーヴォワール一行が最初に入った湯宿は、「当地の大カジノである一番立派な茶屋」「百メートルも深い所にある」という表現から見て、奈良屋兵治宅(現在の奈良屋)と推定される。
彼らはその湯宿が満館のため、そこには泊らず、階段を登った別の湯宿に泊ることになり、そこで「透明な湯の小さな世界の中にいたのは六人で、かなりきれいな女性が三人、男が二人、そしてこのわたし」の男女混浴を体験する。
夕食後、襖がはずされた大広間で地元の人々との交換パーティーがはじまった。三味線がかき鳴らされ、にぎやかな踊りが披露された。彼の目撃した日本人の遊びにはこんなものがあった。「踊り子が韻か拍子でつまづくとその子は罰せられ、しるしとして着物を脱がねばならないことになるーさあ右の袖が落ちる。次に左が、次には帯、それから上着、腰ひも……しまいには耳環までー」ここに出てくる「踊り子」とは「芸者衆」を指すのであろうか、またこの遊びは「-拳」と呼ばれるたぐいのものであろうか、幕末遊楽化した湯治場の様子を見事に伝える描写である。
ボーヴォワールが宮之下に入湯した慶応三年は、江戸幕末が倒壊する年でもあった。同年十月十四日将軍慶喜は大政奉還の上表を朝廷に提出、十二月九日朝廷は王政復古を宣言した。(岩崎宗純)
【西洋人湯治客第一号】
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